西了寺【君津市|浄土宗】

2023年06月26日

夜田山 西了寺(よださん さいりょうじ)

君津市君津市小山野の「西了寺」は、浄土宗の寺院です。
 
今日は、君津市内を食べ歩き館山に帰る途中にウナギ屋を見つけたので、国道127号線をUターンする際にこの寺を見つけました。
 
寺は127号線沿いにありますが、境内は藪に覆われていて見つけることは困難です。
見つけた時点では寺の名前も創建などはわかりませんでした。現在は無住であり、今にも崩壊しそうです。
 
この寺の名称は? 創建・由緒は? 
とりあえず写真だけ撮影し家に帰って調べてみました。
 

西了寺概要

君津市史通史編によると「大乗寺末」とありますが、この寺が君津市の普戴山 大乘寺(源光院)のことであるかどうかは確認できませんでした。
・参考文献:君津市史(通史編)
・参考サイト:浄土宗千葉教区夜田山 西了寺 君津組29
【宗派】浄土宗(大乗寺末)
【山号】夜田山(よださん)
【御朱印】なし(現在無住)
【本尊】阿弥陀如来
【由緒・沿革】
創建は非常に古く平安時代中期の天禄二年(971年)源信和尚恵心僧都が、親王の菩提のためこの地に建立したと伝わります。
僧都帰洛の後は本尊を守護する僧侶がなく朽廃。
 
その後、江戸時代前期の明暦年中(1655年~1658年)に雄譽靈巖上人 (おうよれいがんしょうにん)が再建し、弟子の生譽檀風上人を開山として浄土宗寺院とし今日に至ります。
 
山号の「夜田山」の由来については、下記のような民話が残されています。

その昔、当山の阿弥陀如来を信仰する農夫婦が、当時流行していた疫病に罹り田植えをすることができず病に臥していました。
すると枕元に僧侶が現れ「汝、病中にて、また妻も病に臥れ誠に不便なり、故に今、汝の作れる田残らず植付く、必ず案ずるなかれ、病は近日中に全快すべし、ただし、全快の上は西了寺本尊を一向に信心すべし」と言い残し夢枕から消えました。
 
数日経って病は快方に向かい、田へ出てみると田植えはすべて終わっておりました。早速、寺へ参拝すると本尊の阿弥陀如来の腰から下は泥まみれだったそう。
 
檀風上人はこれを奉拝し末代まで残るようにと山号を「照明山」から「夜田植山(本尊は田植如来)」に改め、「植」の一字を略し「夜田山」となったと伝えられています。

引用元:夜田山 西了寺

境内案内

このお寺へ入ってみようと思う人はほとんどいないと思いますが、一応説明しておきます。
 
駐車場はありませんが、国道127号線横の右下の写真の空き地へ停められます。
参道もありません。人がやっと通れる位の畦道を進みます。横に電気柵があるので触れないように注意してください。
 

【車を停める場所】
車を停める空き地
【参道の畦道】
畔道

仁王門前の周辺には小さな石碑、石宮、手水石が残されています。かなり古いもののようで、文字は刻まれているものの風化が激しく、ほとんど読み取ることはできません。
 
「燈明料金弐拾円の日」の碑がありますが、現在燈明は見当たりません。
中には「明治廿(二十)八年 願主 重田浅 ?」とはっきり読み取れるものも残されています。
 

【燈明料金弐拾円の日】
燈明料金弐拾円の日
【仁王門前の石碑】
仁王門前の石碑

仁王門

境内入口の朱塗りの仁王門。10年以内に塗り直されたように見えますが、仁王像は残されていません。
仁王門
 

仁王像の跡(左)
仁王像の跡(右)

手水石と石宮はいづれも年代不明。文字もほとんど読み取れません。
 

【手水石】
手水石
【石宮】
石宮

本堂

一番奥に本堂が建っています。昔は茅葺屋根だったようで補修の跡があります。
西了寺の本堂
土壁は破損し屋根の裏は穴が空いています。
西了寺の本堂(右側)
どういう訳か「浄土宗開宗八百五十年」貼り紙だけは新しいものです。
 

浄土宗開宗八百五十年
浄土宗の貼り紙

本堂右側には墓と手水石があります。
墓は見たところ檀家のものではなく、歴代住職のもののようです。
 

【手水石】
手水石
【歴代住職の墓】
歴代住職の墓

詳細情報

名称

夜田山 西了寺

住所

〒299-1126 千葉県君津市小山野3

駐車場

なし

アクセス

館山自動車道路「君津IC」より約4.4km 車で約7分
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