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白山神社と白山神社古墳

白山神社の拝殿

白山神社(しろやまじんじゃ)と白山神社古墳(はくさんじんじゃこふん)

 
※白山神社の読み方は千葉県ホームページ、ウィキペディアは「はくさんじんじゃ」、房総の古社は「しろやまじんじゃ」となっていて、どちらが本来の読み方なのかは調査中。
 
君津市俵田の「白山神社」は、大変古い歴史のある旧郷社です。また、境内裏山の「白山神社古墳」は、地域を代表する古墳として千葉県指定史跡となっています。
 
千葉県ホームページ「白山神社古墳」
 

白山神社概要

 
【旧社格】郷社
【祭神】
 ・大友皇子(おおともおうじ)⇒弘文天皇 または伊賀皇子(648年~672年)
  天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。
 ・菊理比売神(くくりひめのかみ)
【祭礼】毎年9月の最終日曜日
俵田駅周辺から白山神社を過ぎ、西原へ行き、西原の神楽とともに白山神社へ向かい、他の地区も白山神社へ集まります。境内の舞台では獅子舞が奉納されます。獅子舞終了後には、餅やお菓子投げが行われ大変賑わいます。
君津市ホームページ「白山神社の例祭」
【ご朱印】不明
 ※神主は非常駐のため、千葉県神社庁にお問合せください。
【由緒沿革】
 

ウィキペデイアより抜粋

 
白山神社
社伝によると、天武天皇元年の壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)この地に逃げ延びて暮らした(自刃)したとされる伝説が多く残されています。
 
飛鳥時代の天武天皇十三年(684年)に勅使が下向し社殿を造営、皇子を祀り田原神と称した伝わります。
拝殿には、江戸時代中期の神祇伯・雅寿王の文政十二年(1829年)「田原神社」の額があります。
明治維新後に社名を「白山神社」と改め、明治六年(1873年)に郷社に列せられました。

 

房総の古社より抜粋

 
国史現在社にある田原神社は、現在の白山神社のことであり、それまでは「白山大権現」と呼ばれ神仏混淆であった。白山神社と改称したのは、明治初年の神仏分離といわれている。当社所在地の俵田はもとは田原田と書いたが、めでたい文字にするため俵田と改めたと伝わる。
 
現在の祭神は、大友皇子、菊理比売神となっている。菊理比売神は本来、白山神社の祭神であるから、もとからの祭神は大友皇子ということになる。白山大権現と称するようになったのは江戸期頃なのか判明しないが、大友皇子を祭神とするようになったのは、それよりかなり前だと思われる。現に白山神社本殿には、きわめて古い大友皇子の軍装の木像と、皇子の首を入れたと伝わる手桶が安置されている。
 
明治二十二年(1889年)までは、俵田村という独立の村であったが、同年の町村制定の際に上新田、箕輪、長谷川、三田、山本、西原、賀恵淵、末吉、台、青柳、寺沢、戸崎、岩出の十三ヵ村を合併して小櫃村とした。
 

君津市史 通史編

 
「日本書記」に田原神の記述があり、受位年は元慶八年(884年)位階は従五以下とあり古社として重視されています。 

 


 

境内案内

 
境内入口は国道410号線沿いです。最寄り駅はJR久留里線「久留里駅」。ここから俵田駅方面へ歩いて徒歩7分です。
駐車場は一の鳥居の右側にあります。
 
参道は一の鳥居の先に二の鳥居、石燈篭、手水石があり、石段の上に随神門があります。随神門の先に石段があり正面に拝殿と本殿が鎮座。
拝殿左は末社、本殿裏側の山は「白山神社古墳」です。
 

一の鳥居

 
参道の入り口に一の鳥居が建っています。形状は明神鳥居(みょうじんとりい)。年代は刻まれていますが、読み取ることが出来ません。
先頭の文字は「文」のように見えます。ただ、日本の元号は文治、文暦、文応・・・「文」が先頭にあるものが多くはっきりとは分かりませんが、私には「文久」のように見えます。文久だとしたら江戸時代後期の1861年~1864年です。
 

入口の石碑

 
駐車場の上に三基の石碑が建っています。
左から、日露戦争没忠魂碑、??、日露戦没記念碑。真ん中の石碑は文字が小さく読み取れません。
一の鳥居入口の石碑

 

二の鳥居

 
一の鳥居の10mほど先に二の鳥居が建っています。朱塗りの木製で年代は見当たりません。形状は両部鳥居です。
二の鳥居
 

常夜灯

 
二の鳥居の10mほど先にある常夜灯。風化はしていませんが、年代は不明。願主は安藤良太郎、石工は伊藤安造と刻まれています。
 
石燈篭
 

手水舎/手水石

 
最初の常夜灯の後ろにある手水舎と手水石は、奉納が文久六年のようにに見えますが、文久は三年までしかないので文久ではありません。
 
手水舎の裏は湧き水の池があります。名水で名高い久留里周辺は各所に水が湧き出ています。
手水舎と手水石湧き水の池

 

随神門(ずいしんもん)

 
最初の石段の上にある随神門。随神門は、お寺の仁王門に近いもので神域の魔除けです。安房地方(南房総市、館山市、鴨川市、鋸南町)で見かけたことはありませんが、近くの久留里神社にも同じ物があります。
随神門
 
江戸の総鎮守である神田明神の随神門は、左が櫛磐間戸神(くしいわまのかみ)、右が豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)です。
櫛磐間戸神の像豊磐間戸神の像

 

常夜灯

 
拝殿の階段下の常夜灯。願主は???右衛門とありますが年代は読み取れません。
常夜灯(左)常夜灯(右)

 

狛犬

 
拝殿手前にある一対の狛犬。年代ははっきりと読み取れませんが、江戸時代後期の文化二年(1805年)に見えます。
狛犬(左)狛犬(右)

 

寄せ宮

 
拝殿の右側に寄せ宮には八社が祀られています。
寄せ宮全景の画像
 
左から熊野社、神明社、八幡社、天王社、子守社、子安社、皇産霊社(みむすびしゃ)、八坂社。
天王社と八坂社には神輿が展示されています。
寄せ宮(熊野社と神明社)

 
 

拝殿

 
手前が拝殿、奥が本殿です。神社の屋根の形状は、大社造、流造、住吉造・・・数種類あります。
 
白山神社拝殿の屋根の形状については、調べても分かりませんでした。正面の半円の部分は、向唐破風(むこうからはふ)、軒唐破風(のきからはふ)、縋破風(すがるはふ)などがあります。この3つの違いを説明すると大変長くなるので割愛しますが、向唐破風にようです。
屋根頂点の彫り物は懸魚(けぎょ)と呼ばれます。ここの懸魚は鳳凰の彫刻です。
 

本殿

 
本殿の屋根は片方が長い流造り。日本で最も多く見られる形式です。
屋根の上の棒は両端の斜めのものが「千木(ちぎ)」、水平のものが「‎鰹木(かつおぎ)」と呼ばれています。
 
千木の切り口が地面に対して垂直に切るものを「外削ぎ」、平行に削るのを「内削ぎ」といいます。俗に外削ぎは男神、内削ぎは女神という説があちますが、これは例外が多く、日本では圧倒的に外削ぎが多く見られます。
 
鰹木の本数は2本から10本まで色々あります。鰹木が奇数なら男神、偶数なら女神という説が多く見られますが、これも俗説です。
 
現に近代社格の最高位の官幣大社である館山市大神宮の安房神社は千木が内削ぎ、鰹木が7本で奇数なので、上の説にあてはめると男神と女神が混在しています。
ちなみに安房神社の主祭神は天太玉命 (アメノフトダマノミコト)なので男神です。
白山神社の拝殿全景白山神社の拝殿と本殿

 


 

白山神社古墳について

 
本殿の裏は千葉県指定史跡の白山神社古墳があります。小櫃地域には多くの古墳があり古墳時代中期から後期にかけて造られた古墳が多く「白山神社古墳」、「浅間神社古墳」、「飯籠塚(いいごづか)古墳」は「小櫃の三大古墳」と呼ばれています。「君津郡誌」のよると「古墳連珠の如く、一眼界の及ぶ所にして数十基に及ぶあり」とあります。
 

【白山神社古墳の実測図】
白山神社古墳実測図

 

境内の案内板より

 
千葉県指定史跡 指定年月日昭和五十六年三月十三日指定
この古墳は、小櫃川中流域に臨む舌状の台地上にあり、全長88m、後円部の高さ約10mの前方後円墳です。墳丘は後円部中央にくぼみがありますが、神社の社林として保護され、旧態をよく残しています。
 
後円部に比べ、前方部が低く、幅も前方に向かってさほど広がらない携帯を残していることから、対岸の飯籠塚(いいごづか)古墳と相前後して構築された、古墳時代前期の古墳と推定されます。
 
古墳の前後には陪冢(ばいちょう)(注1)があり、明治三十一年(1898年)にはそのうちの数基が発掘され、古鏡(獣形鏡)、直刀、鉄鏃(てつぞく)(注2)等が出土したと伝えられます。
 
この付近には古代馬来田国造(うまくたのくにのみやこ)(注3)が置かれたといわれていることから、主墳であるこの古墳はその関係者の有力者の古墳ではないかとみられています。本古墳は、当地域を知る上で重要な古墳です。
千葉県教育委員会
君津市教育委員会
 
注1 陪冢とは:小型の古墳または、埋葬品や臣下を埋葬するための古墳
注2 鉄鏃とは:石鏃に代わって用いられるようになった鉄製の鏃(やじり)
注3 馬来田国造とは(Wikipedliaより抜粋)茨城国造の祖である建許呂命の子・深河意弥命が支配した国造(地方を治める官職の一種)。
   支配地域は当時馬来田国と呼ばれ、現在の袖ヶ浦市全域、木更津市の大部分、君津市と鴨川市の一部。
 

房総の古社より抜粋

 
昔から里人の口伝では、この古墳は大友皇子を祀ったものとされています。しかし当古墳は遅くとも5世紀前半のものと思われるため、この古墳の埋葬者は、大友皇子ではなく馬来田国造か、この土地を初めて拓いた豪族のものと思われ、後になって大友皇子を祀った可能性がある。俵田周辺には石器時代の石棒、石鍬、石鏃やたくさん発見されている。

 
古墳の奥に入ってみましたが、下の写真が行き止まりです。奥に古い倉庫のようなものが建っていますが、現在は何も残されていません。
白山神社古墳

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