秋元城跡(あきもとじょうせき)別名:小糸城・青鬼(せいき)城
君津市清和市場の「秋元城跡」は永正期ころの秋元氏の城跡といわれています。
今日は近くのカフェBellwoodを探しているうちに、ここ「秋元城跡」を見つけ、行ってみることにしました。
入口の碑の道路向かいに専用駐車場があります。
秋元城とは
(参考:君津市史通史編)
立地
小糸川上流部左岸の鹿野山より派生した丘陵上にある。標高は108m南側と北側は断崖絶壁となっています。東側の低地面との高低差は60m、周囲に根古屋(清和市場)、城出根(西粟倉)、城山(市宿)の小字が残っています。城の名称は諸文献では「小糸城」と紹介され、伝説では「青鬼城」の別称もあります。
歴史
明治二十二年(1889年)の「上総国町邨誌」によると永正五年(1508年)三月、里見義豊の臣下、秋元兵部少輔義正が築き、元亀中(1570年~1573年)子の義久の時に落城したといいます。里見義豊は永正十一年(1514年)の生まれとされ、同五年の存在が否定されてきましたが、同九年の義豊の発給文書「里見家永正元亀中書札留抜書」が確認されました。
元亀年間は里見氏が北条氏に対して勢力を挽回した時期であり元亀年間の落城説は信憑性に欠けるとの説もあります。
昭和二年(1927年)の「千葉縣君津郡誌」では、清和市場の妙喜寺(廃寺)過去帳の記載から義久の没年を永禄七年(1564年)六月と紹介しています。
これが発端となり同年正月の国府台合戦に勝利した北条氏が秋元城をも陥落させたとする大野太平説が生まれました。
秋元氏関係の実在する資料は少なく、確実な資料は発見されていないようです。
入口の案内板
城の規模は東西460m、南北400mの丘陵全体に及んでいますが、とりわけ山上は曲輪の周囲を切岸・堀切・横堀で防御した優れた遺構が残されています。
また、山麓には根古屋や内宿の字名が残り、城下町が広がっていたと思われます。平成13年度~平成15年度にかけて行われた発掘調査では、山上と山麓で掘立柱建物跡が確認され、また、瀬戸、美濃産や中国産の陶磁器、かわらけ(素焼きの皿)、銭貨などが出土しています。
秋元氏代々の居住として、また、当時の城の有様を良く伝えるものとして、秋元城は貴重な文化遺産です。
君津市教育
入口
専用駐車場の道路向かいが入口です。
入口から数十メートル進むと最初の分岐点があります。
左側は「青鬼大神碑」、右側は「千畳」方面です。
青鬼大神碑への道
猪の掘り返しが多く足元がぬかるんでいます。マムシ、ヒル、マダニ、スズメバチなどの危険な生物が潜んでいそうなので引き返すことにしました。
房総は低い山だらけなのですが、軽装は危険です。藪に入るなら冬がおすすめです。
千駄グラ
分岐点裏側が「千駄グラ」です。平坦な広場ですが藪が深く中には入れません。
千駄グラの右側の道端には大きな壺があります。どの位前の物なのでしょう。
最初の分岐から数十mで藪が深くなってきました。雨後なのでぬかるみが深くスニーカーでは無理です。
千畳はまだまだ先にあるようです。今日は軽装なので引き返すことにしました。
大変な割に見るべきものが少ないので、二度と来ないと思います。
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