鞍馬神社(くらまじんじゃ)
富津市青木の「鞍馬神社」は社殿のない小さな神社です。
場所は国道16号線沿い、青木集会所の隣です。
この神社の名称について境内の石碑などを調べてみましたが「鞍馬」という文字は見つけることができませんでした。
また、周辺にも「鞍馬」という地名はありません。それではどうして「鞍馬神社」としたのか?
それはGoogleMapに「鞍馬神社」と登録されていたからです。
インターネットで「鞍馬神社」と検索してみると、ヒットするのは京都市左京区鞍馬本町「鞍馬寺」ばかりで「鞍馬神社」の名称は全国でも珍しいものだと思われます。
当神社については富津市史や神社庁サイトにも記載されていません。下記に調査中としましたが、今後も資料が見つからないと思われます。
【旧社格】無格社
【祭神】調査中
【御朱印】調査中
【祭礼】7月中旬(青木八坂神社祭礼)
【由緒・沿革】調査中
岩山の入口に朱塗りの鳥居と石宮が建ち、全体に講の石碑が多数建てられています。
講とは神社仏閣で行われる行事や会合の集団のこと。江戸時代には聖地巡礼や寺社参拝など目的で講の結成が盛んになりました。
御嶽山座王大権現の碑
岩山の頂上に建つ石碑。
『八海山堤頭羅神王
御嶽山座王大権現
三笠山刀利天』
と刻まれています。
越後の八海山神社(八海山大頭羅神王)、木曽の御嶽神社(国常立尊=御嶽山座王大権現)、上州または木曽の三笠山刀利天神社(豊斟渟尊)の参拝記念碑です。
庚申塔(庚申塚)
多くの神社で見かける「庚申塔」。庚申信仰は中国の道教から伝来。庚申講を3年18回続けた記念として建てられることが多いといわれています。
古峯神社の碑
「古峯神社」の石碑は安房・上総地方の神社でも頻繁に見かけます。
ただし、拝殿や本殿が建っているものは見かけたことがありません。
栃木県鹿沼市の古峯神社より分霊したか、末社を合祀したものと思われます。
鳥居と石宮
鳥居の形状は調べても解りません。
笠木、貫、柱がすべて円形、笠木は柱の外に突き抜けていない神明鳥居と似ていますが、
この鳥居は笠木の両端が斜めに切られてた襷墨(たたずみ)と呼ばれる形状です。
鳥居の奥に石宮が三基並んでいます。いづれも文字は確認できません。
右側の二基はキツネが祀られているのでお稲荷さんだと思われます。
青堀南部漁協解散記念碑
鳥居左側の大きな記念碑。碑の説明によると、富津岬と小糸川河口の間にある当地は、昔から打瀬網漁業と海苔養殖が盛んだったといいます。明治三十五年に「青堀村漁業協同組合」大正二年に「青木漁業協同組合」大正五年に「青堀村漁業組合」が結成され、その後統廃合が繰り返され、昭和三十五年七月に町村合併により「青堀南部漁業協同組合」となります。
昭和四十二年三月、京葉臨海工業地帯造成計画が提示され、県より漁業権放棄の要請を受けます。この要請について一度は反対多数により否決されたものの、地域漁業者それぞれ転業の道を歩み、郷土の発展を期待し昭和五十三年四月に解散とあります。
松尾芭蕉の句碑
明治三年(1870年)建立
『ほとゝきす啼や黒戸の濱ひさしはせを 秋巖書』
この句は私にはまったく意味が理解できません。
詳しくは、外部サイト「私の旅日記」
ほとゝきす啼や黒戸の濱ひさしをご覧ください。
登山三十四度の碑
『御嶽 登山三十四度 秋山熊二郎碑
昭和四十七年七月十八日』
木曽の御岳山に34回も登ったということなのでしょうか。
永久講の碑
以下のように刻まれています。
『永久講
遠山倉吉
中教正 嶽蔵霊神
贈少講義 覚心霊神
小曽根角二郎』
教導職(きょうどうしょく)は明治五年から明治十七年に定められた宗教官吏。神道や仏教の教師の階級のこと。教正(大・中・少)、講義(大・中・少)などの階級があります。
追補中講義稲村善六之碑
追補とは一旦完成した文章に補って書き加えること。下に文字がたくさん刻まれています。