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燈籠坂大師の切通しトンネル

灯篭坂大師の切通しトンネル

燈籠坂大師(とうろうざかだいし)の切通しトンネル

 
富津市萩生(はぎう)の燈籠坂大師の切通しトンネルは変わった形のトンネルとしてSNSで話題となっており、撮影に訪れる人が多いトンネルです。
国道127号線の城山隧道トンネルの入り口に赤い鳥居があり、「燈篭坂大師参道、弘法大師霊場金華山善道寺」と書かれています。
 
鳥居には「燈篭」と書かれていますが、インターネットなどでは「燈籠」となっています。どちらが正解なのでしょうか?
籠と篭どちらも同じ意味です。音で、こもる、かごと読み、竹で編んだかご、中に閉じ込めるなどの意味があります。三省堂辞書ウェブ編集部による ことばの壺によると、昭和53年1月1日では「籠」が第1水準、「篭」が第2水準でした。ところが、昭和58年9月1日の規格改正では、「籠」と「篭」が入れ替えられ・・・この後延々と続くのですが、現在は「籠」が常用漢字、「篭」が略字、異体字となっています。
 
富津市の観光協会も「燈籠坂」で統一するよう決めているそうです。
 
話が横道にそれましたが、赤い鳥居の裏側が駐車場なので、ここに車を停めてください。ここからトンネルまで100mです。
燈籠坂大師の参道入口の赤い鳥居
 
駐車場の先にある手掘りの丸いトンネルは目的の「切通しトンネル」ではありません。
この手掘りのトンネルは、南房総市高崎にある心霊スポットとして有名な「岩井の化けトン(木の根トンネル、原田山トンネル)」と形が似ています。
しかし、この手掘りのトンネルと燈籠坂大師のトンネルで心霊現象を見たという噂は聞いていません。
手掘りの丸いトンネル
 

切り通しトンネル

 
下の写真が燈籠大師の切り通しトンネルです。このトンネルは明治から大正時代にかけて掘られ、その後昭和初期に鋸山の石切技法により更に工事が行われ現在の形になったといわれています。
 
南房総でトンネルや洞窟といえば、ハート型の光やホタルの撮影スポットとして亀岩の洞窟(濃溝の滝)が有名ですが、この「燈籠坂大師の切通しトンネル」も非常に特徴的な形をしているので、最近は撮影に訪れる人が増えており「インスタ映えするスポット」として人気が出てきています。
 
富津市の公式サイト燈籠坂大師の切通しトンネルによると、このトンネルは上部の四角い部分が明治から大正にかけて掘られ、下部の丸い部分が昭和初期に掘り増しされたとあります。
 
ということは、最初に人だけが通れるように上部の四角い部分を掘り、後に車が通れるように下部を掘ったと考えられます。
とにかくこんなユニークな形をしたトンネルは見たことがありません。
燈籠坂大師トンネルの入り口
 
先へ進むと内部は暗くなりますが、照明があるので、真っ暗ではありません。
燈籠坂大師トンネルの内部
 
少し先へ進むと天井は無く切通となっています。トンネルな長さは約100mです。
燈籠坂大師トンネルの内部
 

燈籠坂大師

 
切り通しトンネルを抜けると、燈籠坂大師の参道が見えてきます。参道入口には「燈籠坂大師縁起」の案内板があり、要約すると以下のようになります。
 

燈籠坂大師 縁起

燈籠坂大師は弘法大師空海を本尊としてお祀りしています。大師は宝亀五年(744年)六月十五日、四国讃岐の国に誕生され、二十歳の時に勤操大徳(ごうそんだいとく)により仏門に入り、名前を空海と改め修行を始めると同時に仏教学について研究を重ねるようになりました。
 
弘仁十一年(820年)弟子の真済(しんぜい)と幹海を従え日光山に下りました。当時の東海道は伊豆から海路をとり上総の保田、金谷へ上陸するのが本道でした。大師が途中この地をお通りになった際、ここに自画像を刻みました。
 
大師が去った後、里人は大師の徳を慕いここに常夜灯を点じ海上安全、大漁を祈願し大師像を礼拝し帰依しました。これより沖で漁をする舟は、この燈籠を灯台の代わりとするようになり、燈籠大師と呼ばれるようになったということです。

 

鳥居

参道には鳥居が三基あります。一の鳥居はコンクリート製の明神鳥居、二の鳥居はオレンジ色の木製で形状は宗忠鳥居。宗忠鳥居の特徴は、笠木(一番上の木)の両端が斜めに切られ、貫(二番目の木)は角型で柱の外に突き出る形状。ここまでは鹿島神宮でみられる鹿島鳥居ですが、鹿島鳥居に額束を付けたのが宗忠鳥居です。三の鳥居も同じく宗忠鳥居です。
 

男坂・女坂

参道途中にある二の鳥居の先に「男坂・女坂」と書かれた案内板があります。男坂/女坂というのは神社やお寺の坂道でよく見かけます。通常、男坂は勾配が急で距離が短く、女坂は緩やかで距離が長くなっています。
男坂と女坂の分かれ道
 

手水舎と手水石

参道の石段途中にある手水石。奉納は江戸時代後期の文政十参年(1820年)です。
二の鳥居手水舎と手水石

 

拝殿

拝殿は彫り物がなくシンプルな造り。賽銭箱は「天羽漁業組合竹岡支所」とあり、やはり漁業関係者の信仰が篤いようです。
燈籠坂大師の拝殿
 
境内からの眺めは良いようでもあり、悪いようでもあり、どちらともいえる微妙な状況です。ほんの少しだけ海が見えますが、ここに灯台を建てたとしてもほとんど役に立ちません。灯台はもっと上にあったのでしょうか?
境内からの眺め
 

造海城(つくろうみじょう)跡

拝殿の奥に石段があったので進んでみました。入口には何も書いてありませんが、少し先に行くと下記のように書いてあります。
「造海城に登城の方へ未整備のため危険です。自己の責任で登城ください。事故トラブルに対する責任は一切負いかねます」とあります。
 
このような場合、私は大抵前へ進みます。
しかし、この先トンデモナイことが待ち受けていたのです。結論からいってしまうと、この先は行かない方がいいです。
拝殿右側の石段造海城の案内板

 
途中の坂道はそれほど急ではありません。いくつか分岐点がありますが、木の案内板があるので迷うことはありません。
 
山道はクヌギやコナラの木が多く樹液もたくさん出ています。通常、このような場所には、カブトムシやクワガタがたくさんいるのですが、一匹も見当たりません。スズメバチやカナブンさえ見当たりません。6月下旬では時期が早いのでしょうか。
 
この先10分ほどで頂上に着きますが、途中にも頂上にも何も無いので引き返しました。
クヌギとコナラの林木のうろの樹液

 
少し先へ進むと足元でガサガサという音がしました。下を見るとヘビがいます。よく見ると二ホンマムシです。細い尻尾を小刻みに震わせ威嚇してきます。体には特徴的な銭形の模様があります。危なく踏むところでした。
 
南房総はマムシの多い地域で注意しなければなりません。注意といってもずっと続く訳もないので、藪や山道に入る時は、しっかりした登山用の靴か長靴を履く必要があります。
山口県の宇部市医師会のサイトによると、年間1,000人以上がマムシに噛まれそのうち10名前後(約1%)が亡くなるようですが、届け出の義務はなく正確な件数は把握できていないそうです。
 

マムシに噛まれた時の対処法

 
1.傷口から口で毒を何回も吸い出す。水があったら傷口から毒を絞りだし洗う。お茶などタンニンを含むものは毒を中和する作用があるので利用する。
2.病院に連絡し救急車を呼ぶ。
3.傷口から心臓に近い部分(5cm~6cm)を軽く縛る。だだし10分おきに緩める。
4.体を安静に保ち、水分を摂り毒素濃度を下げ、利尿促進をはかる。
最初にやるべきことは、一刻も早く毒を吸い出し、救急車を呼ぶことのようです。
詳しくは伊勢崎士<マムシに噛まれた場合の対応をご覧ください。
 
マムシの画像
 
マムシのいた場所から10分位で燈籠大師に戻れるはずなのですが、20分経っても辿りつかず行き止まりとなってしまいました。どうやら道に迷ってしまったようです。
行きは割と簡単だったのに帰りは分岐点を気づかず通り過ぎることが多く、1時間位かかってしまいました。
 
最初に「造海城へ行かない方がよい」と書いたのは次の理由によります。
1.行っても見るべきものがない
2.マムシ、スズメバチ、イノシシがいる
3.道が細く倒木などがある
4.帰り道が分かりづらく迷う可能性がある
 

造海城とは

 
寛正二年(1461年)真里谷信興によって築かれた城。真里谷氏が里見氏の配下に入った天文六年(1537年)以降、小田原北条氏に備えて里見水軍の拠点として重要な役割を果たす。天正十八年(1590年)里見氏が上総・下総の領土を没収され、安房四万石に減封されたことにより廃城となりました。

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