安房里見氏(あわさとみし)
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里見氏概略
安房里見氏は清和源氏の新田氏を先祖として上野(こうずけ)国の碓氷(うすい)郡里見郷(現群馬県榛名町)で里見氏を称したのが始まり。初代里見義実から里見忠義まで十代にわたり戦国大名として安房国を治める。
【里見氏の始まり】
鎌倉公家方持史が滅亡した翌年の永享十二年(1440年)下総の結城(ゆうき)氏が反幕府の挙兵(下総国結城の戦い)に踏み切る。幕府は上杉持朝に追討を命じ翌年に結城方は落城。この時に里見家基は討ち死にした。家基の嫡子里見義実は三浦半島から安房の白浜に落ちのび安西氏のもとに身をよせたのが安房里見氏の始まり。その後勢力を強めた里見氏は文安二年(1445年)長狭の豪族「東条常政」を金山城(太田学)で討ち安房国を平定したという。
※里見氏についての確かな文章や記録が見つかっているのは三代義通以降で、初代義実、二代成義について軍記物などを基とした説は大きな疑義が示されており、再検討が行われています。
【里見氏の終焉】
里見忠義は18歳の慶長十六年(1611年)小田原城主大久保相模守忠隣(ただちか)の甥の娘をめとった。この娘は家康の長女亀姫の孫であり、この婚姻は里見家の立場を有利にするものと思われていた。しかしこの婚姻が里見家にとって仇となってしまう。慶長十九年(1614年)正月十九日小田原の大久保忠隣が改易を命ぜられ小田原城は没収となり忠隣は彦根藩に幽閉となる。理由は忠隣が幕府の許可を得ないで養女を山口伊豆守に嫁がせたことであった。同年九月、忠義は将軍に重陽(陰暦9月9日の節句)の祝儀を述べるために江戸へ上った。この際に登城しようと待機していたところ将軍からの使者があり国替えを命ぜられてしまう。理由は城郭を修理して要塞を構え、浪人を多数抱え、家臣が身分にふさわしく多いということが表面上の理由であった。実際は、徳川幕府の政策として外様大名の削減や江戸周辺からの排除をはっかっており、里見氏のような強力な水軍を持つ大名が東京湾口の要衡を占めているのが目障りであったと見られている。こうして安房国は没収、鹿島三万石の替地として倉吉に改易となり、正木大膳、堀江能登守ら10余人を従え倉吉に移り館山城は取り壊しとなった。
八代 里見義頼(よしより)
【生没】天文十二年(1543年)または元治元年(1555年)~天正十五年(1587年)45歳
【墓】光厳寺
【所在地】〒299-2416 千葉県南房総市富浦町青木231-1
参考文献等
・富山町史 通史編
・富浦町史
・和田町史 通史編
・三芳村史
・鴨川町のあゆみ