豊受神社(とようけじんじゃ)
南房総市米沢の「豊受神社」は旧吉井村の村社です。境内の鳥居は大変珍しい形をしており、これについたは後述します。
豊受神社概要
※参考文献:富山町史
【祭神】
主神:豊宇気毘売命(とようけびめのみこと)
合神:誉田別命(ほんだわけのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)
【祭礼】10月24日より前の土曜日平群の祭礼
米澤・犬掛・吉沢・平久里中・井川・山田・平久里下・荒川地区の合同祭礼
【社格】旧村社
【御朱印】なし
【由緒・沿革】
昭和二十三年(1948年)提出願書控「豊受神社據證」(吉沢区有文書)によると「創立年代は不明。明治維新の際、当郡平久里中村天神社氏子より分離、当村六拾壱戸、旧吉村中当社氏子となる。創立年代不詳なれも、手水鉢の年紀、嘉永壱年(1848年)酉弐月吉日と印たるにより、嘉永年間以前と推定」とあり創立を嘉永二年以前としています。
明治十年(1877年)吉沢字西ノ沢の八幡神社、吉沢字沢又の稲荷神社を合祀、明治四十一年(1908年)吉沢字大久保の恵美寿神社を合祀。
大正十二年(1923年)九月の関東大震災には、かなりの被害があったようで、「豊受神社、震災費の受入に付、神社普請の件」(吉沢区有文書)の設計書が提出されています。昭和五年(1930年)には本殿、拝殿共に屋根替えが行われています。(棟札より)
境内案内
鳥居
この形の鳥居は何の変哲もない普通の鳥居だと思っていました。最初に見たのは南房総市加茂の賀茂神社です。撮影後家に帰って調べてみても鳥居の名前が分かりませんでした。その後、神社に詳しい方数人から連絡があり、珍しい形の鳥居であると聞きました。
鳥居には60以上もの種類があるとされ、インターネットで様々な種類の鳥居が紹介されています。大半の鳥居は地面と平行の柱が2本あり、上部の柱を笠木、下部の柱を貫といいます。ところがこの神社の鳥居は貫はなく、3本の円柱で構成されています。この形の鳥居を何と呼ぶのでしょうか?
インターネットで色々と調べてみましたが、全く同じ形の鳥居はみつけられませんでした。。
この形状の鳥居は南房総市加茂の賀茂神社、南房総市千代の皇神社にもあり、テレビ局、雑誌社、学者などから数回照会があり写真提供をしたことがあります。
私は鳥居には詳しくありませんが、インターネットでも見つけられず、何回も問い合わせがあったことから、この形の鳥居は全国的にも珍しいようです。
当サイト(房総タウン)については、テレビ局などから月に数回問い合わせがあり、画像提供を求められますが、商用利用については5枚1,500円で販売しています。
しかし、6年間で1回も売れたことはありません。それどころか、連絡先不明のインターネットで無断で使用されてしまっています。
あまりに画像使用についての問い合わせが多いので、ここに記載しておきます。
当サイトの画像は、公的機関や災害時については無償、商用利用については5枚1,500円。当然、無断使用は厳禁です。ただし、リンクはフリーです。
門柱(石柱)
正確に読み取れませんが、村社豊受神社のように見えます。年代は不明。
常夜灯
既に崩れてしまっているので年代は不明。この状態からすると江戸時代後期頃のものと思われます。
石宮
拝殿右側の石宮。文字は読み取れません。明治時代に合祀された神社なのでしょうか。
力石
力石は、江戸時代から明治時代まで、力比べを行うために用いられた石。現存する力石で最も古い年代が刻まれているのが、江戸時代前期の寛永9年(1632年)です。(Wikipediaより)20世紀後半に力比べの風習が廃れ力石を神社に奉納するようになりました。力石はこの神社に限らず、多くの神社で奉納されているのを見かけます。
手水石
年代は確認できませんが、富山町史によると嘉永壱年(1848年)酉弐月吉日です。
拝殿
富山町史によると昭和五年(1930年)に屋根が亜鉛板に葺き替えられていますが、その後修復されたかどうかは不明。
どちらにしても崩壊寸前で再建が必要と思われます。
本殿
拝殿奥の本殿。こちらも傷みが激しく壁に穴が空いています。