

上人塚(しょうにんづか)
鴨川市広場の「上人塚」は小松原の法難で討ち死にした「工藤吉隆」の死を悼み、日蓮がこの地に祀ったと伝えられています。
小松原の法難とは
参考文献:鴨川のあゆみ、東条のあゆみ
建長五年(1253年)故郷の小湊に帰った日蓮は、四月二十八日の早朝、清澄山の旭が森の登り、朝日に向かって題目を唱え法華宗を立てることを宣言し日蓮と名を改め清澄寺で法華経の教えを説きました。しかし、天台宗の清澄寺と、念仏の信者であった東条郷の地頭「東条景信」らの怒りをかい、故郷を追われることとなります。これにより日蓮は鎌倉に庵を構え教えを広めました。このころ、関東では天災や疫病がはやっていて、日蓮はこの原因が他の宗派の教えによるものだとして、法華経による政治が行われなければ大きな内乱がおこると予言し、「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)を著して幕府の政治を批判したので、弘長元年(1261年)伊豆に流されました。
二年後に許されて鎌倉に戻った日蓮は、故郷の母が病気であるとの知らせを受け、小湊に戻り父の墓参りをしてから母を見舞いました。そして、西条華房(現花房区)の蓮華寺に滞在して布教活動を行いました。文永元年(1264年)十一月十一日、信者である天津城主の「工藤吉隆」の招きを受けて華房から天津へと向かいました。
一方、かねてから日蓮を憎んでいた「東条景信」は日蓮を待ち伏せし十一日の申酉(さるとり)(午後五時頃)日蓮が弟子を連れて小松原にさしかかった時、日蓮を襲撃しました。このとき日蓮の弟子は10人ほどで、役に立つものはわずか3,4人。弟子の鏡忍坊(きょうにんぼう)が討ち取られ二人が負傷、このときに急を聞いて駆けつけた「工藤吉隆」の働きにより、日蓮も手傷を負いましたがなんとか難を逃れ、小湊の岩高山(現在の日蓮寺)で傷の養生をしました。。しかし、この戦いで「工藤吉隆」は討ち死にしてしまいました。
これら一連の事件を「小松原の法難」といいます。
日蓮は後に、吉隆に妙隆院日玉聖人(みょうりゅういんにちぎょくしょうにん)の法号を贈り殉難の地に葬りました。後に土地の人々がこの地に塚を築き上人塚と呼びました。それから500年程後の明和五年(1768年)鏡忍寺二十三世住職の日長が塚の上に碑を立て、正面に「日玉聖人」、右側に「日隆聖人」、左側に「日暁聖人」と刻みました。当時は十七メートル四方ほどの大きさがあり、桜の巨木などもありましたが、道路の拡張などにより、現在は三分の一ほどの大きさとなりました。
庚申塔
左側の碑は日長が建てた碑で、「日玉聖人」、「日隆聖人」の文字が刻まれています。