サイドメニューアイコン
トップスライドアイコン

館山・南房総ポータルサイト 房総タウン ページロゴ

真言院の地獄絵図

真言院の地獄絵図

真言院(しんごんいん)

 
南房総市和田町黒岩の「別墅山眞言院」は真言宗智山派の寺院です。本堂には南房総市文化財に指定されている18枚の地獄絵と6枚の大きな天女の絵があり必見の価値があります。
 
【山号】別墅山
【宗派】真言宗智山派
【由緒】末尾に記載
【御朱印】あり(事前連絡要)
 

板絵著色地獄極楽図(いたえちゃくしょくじごくごくらくず) 南房総市指定文化財(平成八年三月二十九日)

 
【時代】江戸時代
【絵師】那古住人 林勝吉
         莫春
板絵著色地獄極楽図は、江戸時代の寛延2年(1749年)に建てられた薬師堂内の欄間にはめ込まれた板絵です。
お寺にお参りに来た人に、人は死んだあとはどうなるのかを教えるために描かれた絵です。
 
人は死ぬと必ず六道(天界、人道、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄)に落ちるといわれています。
六道は迷いの世界なので、そこから抜け出ないと極楽浄土に行くことはできません。
 
板絵上端に、天明六年(1786年)絵師富国那古住人、林勝吉、林莫春と朱書されている。地獄は荒く早い筆運びで、天界の飛天(ひてん)は輪郭や衣分(いもん)を太くし丁寧に描写している。地獄絵図では、目蓮尊者(もくれんそんじゃ)観心十界図(かんしんしっかいず)の中心として描かれる。「世界・心」を最初に掲げているところから、作者は正当の仏学を学んだ絵師であることがわかる。
地獄の入り口に続く針の山の責め苦、賽(さい)の河原、罪人を裁く閻魔大王やその大王の貴重な道具である、罪人を見きわめる平安時代のウソ発見器ともいうべき「浄玻璃(じょうはり)の鏡」なども細かく描かれている。救済をあらわす欄間には、西方浄土(さいほうじょうど)から観音菩薩が地獄に落ちた女性たちを迎えに来る場面がある。終わりには、舟に乗せて観音菩薩が極楽浄土へつれていくというくだりになっている。当時の安房地方の地獄極楽観を知る貴重な資料である。
平成九年三月三十日 南房総市教育委員会
 
薬師堂に入ると下の配置図と説明の紙が置いてあるので、説明を見ながら、順番に見て行ってください。
 
地獄極楽図配置図
 

(1)人道

 死んだ人が必ず落ちていく六道の最初です。
 
地獄極楽絵 人道
 

(2)観心十界

 亡くなった人(亡者)が悟りの世界にたどり着けますように、残された家族が一心に拝みなさいと教えています。
 

(3)阿修羅道

 六道の一つです。
 
地獄極楽絵 阿修羅道道
 

(4)地獄道

 谷に亡者を突き落す獄卒(閻魔大王の命令で動く鬼)
 

(5)冥界への入口

 三途の川を渡る亡者。亡者は死んでから7日目に三途の川を渡って、冥界(地獄)に入ります。
 

(6)地獄道

 水や食べ物による責め苦
 

(7)地獄道

 針山を登らされたり、山に押しつぶされたりします。
 

(8)賽の河原

 幼くして死んだ子供たちが責め苦を受ける所で、いつまでも石を積まなければなりません。
 早く死んだ親不孝の罰です。
 

(9)地獄の裁判所

 鏡に生前の罪業が映し出されます。はかりに吊るされて罪の重さがはかられます。
 

(10)閻魔王と司命

 閻魔王(地獄の王様)、司命(生かしたり殺したりすることができます)、司禄(どれくらい褒めたり叱ったりするか決めます)
 

(11)針餅、鋸挽き、鶏地獄

 生きていた時に、動物をいじめた人が受ける責め苦
 

(12)斧による裁断 衣領樹と奪衣婆

 婆さんが着物をはぎとり、爺さんが着物を木にかけて罪の重さを量ります。
 木の枝のしなり具合で、斧で手足が切断されます。
 
斧による裁断
 
 
 

(13)業秤

 この秤にかけると罪の重さがわかります。
 

(14)逆さに吊るされた釜茹でにされる亡者と目蓮尊者

 
 

(15)釜茹での責め苦

 
釜茹での責め苦
 

(16)血の池地獄と観音様

 血の池地獄に落とされている女の人を、観音様が極楽浄土へ導いてくれます。
 

(17)石女地獄

 子供を産めない女の人が落ちる地獄
 

(18)観音様に導かれ、船で極楽へと救われる亡者

 観音様は六道で苦しむ亡者を救って、極楽浄土へ連れていってくれます。
 

(19)雲に笛を吹く飛天

(20)雲に枇杷を弾く飛天

(21)雲に大拍子を叩く飛天

(22)雲に太鼓を叩く飛天

(23)雲に琴を弾く飛天

(24)雲に笛を吹く飛天

 
飛天の絵
 


 
【真言院略縁起】
別墅山眞言院は南房総市和田町黒岩字別所に位置する、真言宗智山派の寺である。また、宗祖弘法大師の五十年忌ごとに行われる巡礼では、安房郡八十八ヶ所の第六十七番札所でもある。
 
眞言院の現在の堂塔は、本殿、客殿、庫裏、鐘楼堂であるが、古くは七堂伽藍の巨刹で、修行寺であったという。石垣下の県道が大正初期に建設されるまでは、南に下った所にある旧道に大門があり、そこから本堂まで参道が二百メートルほど続いていた。したがって、大門の脇を流れていた川は、今でも大門川と呼ばれており、広い境内であったことが推測される。また、寺領は真言院を取り囲むように東西と、南は大門川まで広がる水田と畑、及び北側の裏山であった。
 
しかし、昔々裏山が大きく崩壊し、堂塔がことごとく埋没してしまったという。その証拠は、大正の初め現在の県道建設の際に、寺院の什器が多く出土したという古老の話からも明らかである。そのために、萬治年間(1658~1660)に平塚の萓久保の地で衆生済度のために化を施すことが百年余り、火災のために堂塔がすべて消失してしまったが、今も井戸と墓地がその名残を留ている。
 
裏山崩壊のための堂塔埋没と火災による堂塔焼失により、過去の記録は皆無である。そのために、古くからの巨刹と言われながら、現住職が「当院◯◯世」かを明らかにする術がないのは誠に残念なことである。現在残る最も古い住職の位牌や墓石から明らかにされたことは「当院先師祐真」が最も古く、寛文五年(1665年)九月一日没である。その他に二十二僧の名前があるが、そのうち五僧は「圓藏院◯◯世」とある。
 
圓藏院は南房総市千倉町北朝夷にある真言宗智山派安房第三教区の本寺である。江戸時代には、現在の安房第三教区の地域では圓藏院が本寺、末寺に小松寺眞言院、圓明院、他の寺院は門徒であった。眞言院の格式の高さは本堂の造りに見られ、内陣も外陣の廊下も全て板張りである。現在の建物は本殿、客殿、庫裏の三棟ではあるが、昭和四十年代までは厩もあり、住職外出用の馬が飼われていたようである。
 
明治二十七年に起工し三十三年に完成した石垣の中断に建てられている「石垣新築碑」の碑文によれば、宝暦(1751年~1763年)のころ萓久保より現在地にもどr,復元したという。また本堂の棟札には次のように記されている。
真言院建立 文化七歳(1810年)十月吉日
同壁画製作 天明六歳(1786年)十月吉日
法院日侃 代
當国郡 住林 絵師名 勝吉
           莫春
 
眞言院のご本尊は須弥壇中央に安置されている。制作年、作者等不詳である。本堂の内陣と外陣には、極彩色の壁画が描かれている。外陣外縁の欄間にも最初は描かれていたと思われるが、昭和二十年には既に風雨のために消えていた。外陣内縁の欄間には、地獄の絵がある。本堂正面の外縁から内縁に入ると、その上の欄間には閻魔大王、それをはさんで各欄間に「賽の河原」「針の山」「血の海」などが描かれている。別所から五百メートル余り県道を奥くに入ったところに、昭和五十一年三月に完成した小向ダムがある。このダムの二年間にわたる建設工事の間、県道を上下するダンプカーの巻き上げる粉塵と振動のために、絵が痛み絵の具がはげ落ちるようになってきた。
 
平成八年三月二十九日に、「板絵著色地獄極楽図」として和田町文化財第十二号に指定された。その後も絵の痛みが進むもので、前住職根本乾一の知人である松原道夫画伯に相談したところ修復を申し出てくれ、同じ日展会友の友田政揚画伯とともに、平成十一年四月から十一月にかけて外陣の地獄絵の修復をした。併せて絵の保存のために、紫外線カットの蛍光灯を用意し、サッシの硝子も紫外線カット加工をした。内陣の天女の絵は、最初のままである。
 
第二次世界大戦後の農地改革により、真言院の主な寺領は県道から北側の境内と裏山だけになってしまった。しかし、九十戸余りの檀家が菩提寺眞言院の護持興隆に努め、昭和三十一年に庫裏を新築した。昭和三十六年には、梵鐘の再鋳造がされ、除夜の鐘が復活した。戦争のために供出されてしまうまでは、昭和四年に建立された鐘楼堂には、正徳二年(1712年)住職日浄の銘のある梵鐘があった。
 
日頃古い建物である本堂と客殿の営繕に努め、平成二十二年には鐘楼堂の瓦葺き替えをした。平成二十七年には、五十年間茅ぶき屋根を覆っていた鉄板破損のため、鉄板と茅を取り除いて屋根組を修復して、銅板に葺き替えて面目を一新した。
本堂、客殿、鐘楼堂、境内を取り巻く巨大な椎の木が、古刹眞言院を象徴しているかのようである。
平成二十三年六月 加筆
平成二十八年三月 再加筆
 
別墅山眞言院 現住 平野美道
 
他の神社仏閣を探す
 
南房総の情報サイト_房総タウンTopへ戻る_

このページをご覧になった方は
こんなページもご覧になっています