
法輪山法蓮寺(ほうりんざんほうれんじ)
館山市下真倉の「法蓮寺」は、鎌倉時代創立の日蓮宗の寺院です。
法蓮寺について
※参考文献:館山市史
【山号】宝輪山
【本尊】日蓮聖人
【宗派】日蓮宗 勝浦市興津妙覚寺末
【寺宝】
・門流授職灌頂次第一巻 日蓮撰之
・安房国法輪山法蓮寺資師血脉相承巻 一巻
【御主題(御朱印)】あり
【由緒・沿革】
鎌倉時代の文永元年(1264年)、祖師の日蓮聖人が鎌倉から当地に巡錫の時、安房国三原(現:南房総市三原)の地頭「池田和泉守」が自分の館に日蓮聖人を講じて三日間説法を願った。その際「池田和泉守」は日蓮に帰依して名を法蓮と改め、法蓮の草庵を改めて法輪山法蓮寺と改称したのがはじまり。
その後、室町時代末期の永禄七年(1564年)正木左近太夫時忠が相模の大守北条氏政を引き立てて所々を平定して上総に廻り佐貫の地へ押し寄せた。
安房国へは氏政の弟、左衛門太夫氏康が二百騎余りを率いて北条の西新井(現新井海岸)に船を着け、当地をことごとく平定した。
その時、那古寺、延命寺、法蓮寺などが焼失した。
その後、法蓮寺第十八代、日学が本堂を再建したが、客殿、仏像経巻、法蓮授与の曼陀羅は焼失。日学は、修造を志す者のために、天正四年(1576年)に書き残した巻物が寺宝として保存されている。
大正十二年九月一日の関東大震災で倒壊し、第四十三代、日温が檀信徒の協力により昭和八年(1933年)に本堂を新築し、昭和二十年(1945年)鐘楼堂を新造、更に昭和四十一年(1966年)山門を新築し参道を舗装し堂宇の内外を整備した。
境内案内
参道入口は館山白浜線(千葉県道86号線)にあります。(木村ピーナッツの裏側)
参道は入って左側が駐車場。山門をくぐると参道左側に赤い鳥居の「玉姫大明神」が祀られています。参道右側は、手水舎、鐘楼、赤い鳥居の龍神堂。
参道正面に本堂、本堂左に鬼子母尊神が建っています。
山門
山門は昭和四十一年(1966年)に新築されたものです。

玉姫大明神
手前の朱塗りの鳥居は明神鳥居。玉姫大明神は一般的には豊玉姫命が祀られ浦島太郎の物語の竜宮城の乙姫様のことです。

龍の彫刻
玉姫大明神の向拝の龍の彫刻。彫刻の裏側は「平成十三年二月吉日 四十五世日塔代」、「長須賀住 彫工 稲垣祥三」とあります。
稲垣祥三氏(1943年~)は三代目後藤義光の門人、後藤義徳に寺社彫刻を学び、山荻の来福寺、波左間の諏訪神社などの彫刻を手掛けています。
館山市山荻福楽寺
館山市波左間諏訪神社

鐘楼
昭和二十年(1945年)新築。

手水舎
「昭和四十四年九月二十八日 御本堂 井上梅次郎 くに子」の札があり、隣に古い札もありますが読み取れません。
手水舎奥の赤い鳥居の先の社は「龍神堂」とあり竜神様を祀ってあると思われます。

本堂
昭和八年(1933年)に本堂を新築。その後、改修が加えられていると思います。

龍の彫刻
本堂向拝の龍の彫刻。
「施主 石井太一 昭和十九年十月吉日」、「千倉町 後藤義光 作」とあります。
後藤義光は江戸時代末期の文化十二年(1815年)に千倉町に生まれ、明治三十五年(1902年)の87年の間に100以上の彫刻を残している名工。
最期はこの地、下真倉の青柳で亡くなっています。この彫刻が後藤義光の作であるとしたら、どこかから移されたものだと思われます。

鬼子母尊神
扁額に「鬼子母尊神 官長 大僧正 日真」とあります。「鬼子母神」というと東京都豊島区雑司ヶ谷の鬼子母神堂が有名。
鬼子母神は多くの子の母で、子育てのために多くの人間の子どもを食べる鬼女として人間に恐れられていました。
これを憂いた釈迦は、彼女が最も可愛がっていた末っ子を隠してしまいます。彼女は何日も探し回ったが見つけられず、釈迦に助けを求めます。
「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し彼女が帰依したことから、子授け、安産、子育ての神として祀られるようになったといいます。

御主題
日蓮宗では御朱印のことを御主題と呼ぶそうです。
法蓮寺では御主題帳がなくても御朱印を拝受できましたが、日蓮宗用に御主題の一緒に拝受しました。
公式Webサイト/SNS
【ホームページ】千葉県館山市 祈祷 水子供養 法蓮寺 ホーム
外部サイト 館山フィールドミュージアム上真倉・下真倉-エリア別散策
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