サイドメニューアイコン
トップスライドアイコン

館山・南房総ポータルサイト 房総タウン ページロゴ

観音寺【畠山勇子の顕彰碑と北条家の供養塔】

観音寺の本堂

普門山観音寺(ふもんざん かんのんじ)

 
鴨川市横渚の普門山観音寺境内には「憂国の烈女」と呼ばれる畠山勇子の顕彰碑と北条家の供養塔があります。
 
【宗派】真言宗智山派(成就院末)
【総本山】智積院(京都東山七条)
【山号】普門山
【本尊】聖観世音菩薩・不動明王 
【御朱印】あり
【由緒・沿革】(参考:鴨川町のあゆみ/境内の案内板)
創建年は不詳ですが、慈覚大師円仁(えんにん)(794年~864年)の開基と伝えられています。開基後に一旦微衰しましたが、永徳年間(1381年~1384年)に中興開山されたといいます。明治四十四年(1911年)同宗の本覚寺を合併。昭和二十五年には同宗の常楽寺を合併。
 
一説によれば、観音寺はもとは上総国夷隅郡大多喜にあったといいます。しかし、豊臣秀吉の小田原征伐後に行われた論巧行賞により、里見義康が上総領を没収されたとき、正木氏と共に現在地へ移転したとあります。
 
観音寺の入口。
観音寺の入口
 
入口から山門の間に畠山勇子の顕彰碑があるはずなのですが、見つけられませんでした。
ご住職に聞いてみたかったのですが、今日は彼岸の中日なので聞くことができませんでした。
 
観音寺の山門
 

畠山勇子(はたけやまゆうこ)

 
慶応元年(1865年)12月~ 明治24年(1891年)5月20日
畠山勇子は安房国長狭郡横渚村で生まれました。
明治二十四年(1891年)ロシアのニコライ皇太子が滋賀県大津市で警備の巡査に切りつけられる(大津事件)という事件が起こり皇太子が帰国の途につくこととなりました。
これを知った勇子はロシア政府に対するお詫びとして、京都に出向き庁舎前で喉元を剃刀で切り自害してしまいました。この事件で「烈女勇子」と報道され、盛大な追悼式が行われました。
墓は京都の末慶寺に建てられ、故郷である観音寺に分骨され顕彰碑が建てられました。
 

旗本北条家三代の供養塔

 
山門の前に旗本北条家三代の供養塔があると聞いていました。下の写真が供養塔がどうかは確認できませんでした。
 
旗本北条家は寛永十九年(1642年)から享保六年(1721年)まで80年にわたり、横渚村など群内の五か所を知行所として支配。享保四年(1719年)家督を継いだ三代目氏助(うじすけ)は二年後の享保六年にわずか十二歳で亡くなり北条家は絶えた。その三年後の享保九年七月に村民たちが北条氏利、氏澄、氏副三代供養のために建てたものです。
旗本北条家三代の供養塔
 
こちらが本堂。
本堂のアップ
 

このページをご覧になった方は
こんなページもご覧になっています