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三義民刑場跡【館山市指定史跡】

三義民刑場跡の画像

三義民刑場跡(さんぎみんけいじょうあと)

 
館山市国分の三義民刑場跡/三義民の墓は昭和49年(1974年)に館山市史跡に指定されました。
刑場跡には300回忌の法要にあわせ「義の伝承碑」が建てられ、毎年11月26日には「命日祭」が行われています。
 

万石騒動 安房三義民記

 
江戸時代中期、華やかな元禄文化の裏側で、大名達は多額の借金に苦しんでいた。安房国北条藩主代越中守忠位ものそ例外ではなかった。財政再建のために召抱えられた役人井川藤左衛門は、元禄大地震で隆起した北条海岸に新田を開き、滝川に堰を設けて用水路を開削するなどして未の増産に励む一方、大切に守られてきた鶴ヶ谷の保護林を伐採して売り払うなど、なりふり構わぬ増収策を図った。しかしそれらは農民達を無謀に使役するものであり、さらに六十俵の増米を命じたため、農民達は反発し、年貢減免の嘆願運動となった。領内二十七か村を代表する名主や農民達六百余名は、蓑と傘に身を包み、北条陣屋・北条藩江戸屋敷への門訴、さらには当時固く禁じられていた幕府老中への駕籠訴行となった。しかしその間、川井藤左衛門によって捕らえられていた六名の名主の内、湊村・角左衛門、国分村・長次郎、薗村・五左衛門は正徳元年(1711年)十一月二十六日国分村萱野のこの地で処刑されてしまう。その後も決死の駕籠訴は続きついには老中安部豊後守(あべぶんごのかみ)に取り上げられることとなった。
 
その後の幕府吟味の結果、農民勝訴となったが、入獄させられていた残りの稲村弥市郎、北片岡村庄左衛門、中村九兵衛は追放処分となった。また三名主が処刑された日、国分村在住の地代官行貝弥五兵衛・弾七郎父子は農民側に見方したとして井川藤左衛門によって北条村北原で処刑されていた。
 
この一連の事件は、安房国北条藩一万石の領内で起こったので「万石騒動」と言われ、処刑された三名の名主は「三義民」と呼ばれて郷土を救った恩人として今日まで讃えられている。先祖が残したこの揺ぎない信頼感と堅い団結力。事ここに及んでの神文・傘形連判状などに見られる周到さと知恵。決して暴力に頼ることなく、あくまで言葉と文章で自分達の窮状を訴え続けた忍耐力。これらは、「義」を貫いた強い心と共に私達の誇りであり、人生の指針としてこれからも末永く生き続けていくことであろう。
平成二十二年十一月二十日
万石騒動安房三義民三百年祭実行委員会
 
三義民刑場跡の石碑の画像
 

万石騒動のながれ

 
成徳元年(1711)年 川井藤左衛門、代官高梨とともに6,000俵の増税を村々に命じる。
    9月 7日 領内600名の農民が、北条陣屋前に押し寄せて減税を願い出る。
   11月 2日 農民達が大勢で、江戸の藩主の屋敷へ嘆願に出る。
   11月13日 川井藤左衛門、6名の名主を北条陣屋で牢屋に押し込める。
   11月20日 農民代表が、江戸で老中秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)の駕籠に訴状を投げ入れる。
   11月26日 名主3名が処刑され、妻子追放、家財が没収される。代官行貝(なめがい)父子も処刑される
   12月 4日 江戸で農民代表が老中安部豊後守(あべぶんごのかみ)の駕籠へ直訴。お取り上げになり、勘定奉行の審理がはじまる、
成徳2年(1712)年
    7月22日 判決が下り、川井藤左衛門に死罪、代官林・高梨は追放、藩主屋代忠位(ただたか)は領地没収、捕らえられて生き残っていた名主3名は追放となる。  
 
<三義民>
湊村名主  秋山角左衛門 養秀院一法常感居士
国分村名主 飯田長次郎  貞信院釼室道霜居士
薗村名主  根元五左衛門 萬法院脫叟道解居士
<追放された三名主>
稲村名主  山口弥市朗
北片岡名主 小柴庄左衛門
中村名主  吉田九兵衛  
 
三義民刑場跡の案内板の画像
 
三義民刑場跡の石碑の画像
 

三義民の墓(国分寺)

 
館山市国分の国分寺には処刑された三義民の墓があります。
 
国分寺の三義民の墓の画像
 
館山市山本の滝川用水。川井藤左衛門が作ったと言われている。
 
滝川用水の画像

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