八幡神社【南房総市珠師ケ谷】

2026年02月12日

八幡神社(はちまんじんじゃ)

南房総市珠師ケ谷(しゅしがやつ)の「八幡神社」は、旧珠師ケ谷村の村社です。

概要

丸山町史によると、元禄時代の珠師ケ谷村の寺は、慈雲寺善性寺、門珠院、西興寺の四カ寺、神社は山神、霊之御前神、藤後明神(善性寺境内)、稲荷大明神、八幡宮(当社)、天王、明神の7カ所が記載されています。
当社八幡宮については、子安、天王、明神等の諸社を合祀して現在に至ります。
 
当当八幡宮は元々石堂寺の守護神として祀られたもので、初めは迎駕谷(こうがやつ)にあったが、現在の地に移されたといわれています。
 
江戸時代の中期の安永二年(1773年)極月(十二月)に本殿を造営。
 
大正十二年(1923年)の関東大震災の罹災・修復を経て平成二年(1990年)御大典記念事業として本殿・玉垣等を整備。

詳細

参考:丸山町史/境内案内板
【旧社格】村社
【祭神】誉田別命(ほんだわけのみこと)
【祭礼】10月(丸地区合同祭)
【社宝・文化財】
・慶長年間に地頭より授与された御神体
・三番叟の面、衣装、襖絵
【御朱印】なし
【由緒・沿革】
当社はかつて別当寺の善性寺とともに火災にあい、社殿や資料を焼失したため起源の詳細を知ることはできません。社伝によると、平安時代の万寿二年(1025年)安房国司の藤原惟忠(これただ)の家臣が、小祠を迎駕谷の山頂に建立し、宇佐八幡(大分県宇佐市)より誉田別命を勧請したのが始まりといいます。
 
平安時代の永保元年(1081年)源義家が岩清水八幡宮を修復したのを契機として関東諸国の八幡宮の改修を命じた際に当社も改築されました。
 
平安時代末期の長寛二年(1164年)九月、鎌倉幕府の御家人の和田義盛の父義宗(和田義盛という説あり)が敵降伏祈願のため各所の神社仏閣を修造した際に、当社は旧地迎駕谷より現在の地に遷座造営されたといいます。
 
室町時代の永享六年(1434年)九月十五日、領主「丸珠師ケ谷十郎常綱」が社殿を造営し祭祠の料田を寄進。この田は八幡田といわれ明治維新まで免租田であり、ここで収穫された米は毎年九月十五日の祭礼に供えられ、各氏子に配られていたといいます。
 
室町時代の嘉吉(1441年~1444年)から文安(1444年~1449年)の頃、里見義實(架空の人物との説あり)が下総国の結城城に敗れ、安房に逃れ在住の豪族である丸氏や珠師ケ谷を服従させ、安房一円を支配することとなったとされています。(資料が少ないため異説あり)
 
室町時代(戦国時代)の天文十四年(1545年)安房の国主里見義堯が武運長久を祈願して、各神社仏閣を修理・改修した際、当社も修築されたことが棟札に記録されています。

境内案内

入口に鳥居が建ち、その先に石畳の参道が続き、正面に拝殿と本殿が鎮座しています。

鳥居前の石碑

比較的最近のもののようで「安房国朝夷郡総社 正八幡宮」と刻まれています。朝夷郡は明治時代まで存在した安房国の南部(丸山、和田、千倉、白浜、鴨川市の一部)。朝夷の地名は南房総市千倉町南朝夷・北朝夷などに残されています。
 
正八幡宮とは、主に大分県の宇佐神宮から八幡神を勧請して建てられた神社のことです。

鳥居

一番上の平行な柱の両端が反り上がっているので典型的な明神鳥居です。
八幡神社の鳥居

拝殿

拝殿の手前に昭和二年(1927)奉納の狛犬があるのですが、写真を取り忘れてしまいました。
拝殿は目立った彫刻はありませんが重厚な造りです。
八幡神社の拝殿
向拝の注連縄
向拝の注連縄
向拝の両端に獅子の彫刻が見えます。

向拝の獅子(左)
向拝の獅子(右)

大きな鬼瓦
拝殿横の鬼瓦

牛頭大神の碑

「平成八年十二月吉日 珠師ケ谷産乳組合建立」とあります。
牛頭天王は牛の頭を持った神様。南房総市・鴨川市周辺はかつて「嶺岡牧」と呼ばれ酪農発祥の地です。現在も酪農が盛んなことからこの碑が奉納されたのでしょう。
牛頭大神の石碑
拝殿の裏に本殿が鎮座していますが、撮影に失敗してしまいました。

詳細情報

名称

八幡神社

住所

〒299-2501 千葉県南房総市珠師ケ谷546

定休日

なし

駐車場

あり

アクセス

・館山自動車道路「富浦IC」より約13km 車で約18分
・JR内房線「南三原駅」より約4.7km 車で約7分
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