清国船元順号遭難救助の碑

2025年08月03日

千倉港から川尻川へ散歩している途中、石碑を見つけたので近くに行ってみました。
説明書きによると「清国船元順号遭難救助の碑」とあり、江戸時代に中華人民共和国の貿易船が座礁し、救助に延べ人員6809人を動員した事件のことが書かれています。
 
千倉町史に載っている元順号の絵です。
元順号の絵(千倉町史)
千倉港から石碑を遠望

清国船元順号遭難救助の碑由来記

清国(中華人民共和国)の商船元順号は幕府の許可した貿易船である南京を出帆して長崎に向けて航海中、台風にあい、帆も舵もなくして洋上を150日も漂流し乗組員は餓死寸前の状態にあった。
 
江戸時代後期の安永九年(1780年)五月二日この碑の南東七百米地点、通称「川戸山」の暗礁に座礁した。地元の漁夫たちは、大暴風雨の中を徹して決死的な救助活動を続けた結果、沈敬船主以下79名全員を救助することができた。
 
当時、忽戸村・平舘村・南朝夷村は埼玉県岩槻藩主大岡兵庫頭の領地であったことから岩槻藩では漢学者の児玉南柯を千倉に派遣して一切の事務処理を代行させた。
 
牧田村の名主神作戸右衛門の食客越克明も当時の模様を詳細に記録することに協力した。半病人の乗組員も二が月間に及ぶ地元民の国境を越えた手厚い看護で健康をとりもどし、幕府の命で全員無事に長崎まで送還され便船でそれぞれ故郷に帰ることができた。
 
これに動員された村人は、安馬谷村から白浜村に至る海岸21ケ村延べ6809人に及び、人賃費を始め一切の経費は金銭によって藩主大岡様より支払われたと記録されている。
 
岩槻地方史研究会より始めてこの美談を知らされた。千倉郷土史研究会は、互いに交流を深めるなかで我等の祖先の美挙を永く後世に伝えると共に日中友好親善を願って記念碑を建立すべく町議会に請願し採択された。
 
町長が建設委員長となり、知事建議を名誉顧問として町内外から浄財を募り、県費補助もあって遭難救助の年から数えて200年目に当たる1980年5月2日にこの碑は建立された。
 
※参考文献
「漂客記事」小玉 南柯 著
「千倉文書」原口扁舟 著
 

元順漂着推定コース

・4月29日昼 平磯村沖で漂流選発見
・4月29日夜 千田村方面へ移動
・4月30日 川口村と忽戸村の間へ移動
・5月1日 忽戸村と平磯村の間へ移動
・5月2日 南朝夷七ツ半川戸山で救助開始

清国船元順号遭難救助の碑の説明書き

清国船元順号遭難救助の碑

清国船元順号遭難救助の碑の写真
千倉町史に現地の案内板より更に詳しい救助の様子が記載されていたので紹介します。大変長文なので要約します。

千倉町史「元順遭難救助のあらまし」(要約)

安永九年四月二十九日千倉遥か沖合に一隻の見慣れぬ大船が漂っていました。これを見た白子村の名主久蔵は、近隣の村々と浦賀番所へ届け書を急送しました。
こうしてその夜から近隣総出救助作業に入りました。この船の第一報は出漁中の鰹船に渡されました。
 
唐人たちも覚悟を決めたようで白装束になり白い幟を立て太鼓を打ち声高に叫びました。陸の方でも近隣寺院より鉦を取り寄せ火を焚き種々祈祷をし村人も必死です。そのうちにご加護があったのか磯の方へ船が吹き寄せられました。
陸から四、五十間(70m~90m)位の所で救命ロープが届き23人を救助した後、綱が切れてしまい、唐人たちは船に向かって泣き叫んでいます。そのうち夜が明け風が増々強くなって手段がない状態になります。
 
すると瀬戸村の源之丞というものが名主宇左衛門に申し出ました。「私一人命を捨て一働きし、たとえあやまちがあっても唐人は55人、こちらは一人、首尾よく泳ぎつければ一同を助けることができます。どうかお許しください。」
と綱を持って飛び込んだところ、同じく与助、作兵衛、武助、玄之丞と申すものが後に続き唐船に泳ぎつき命綱を上げました。
 
こうして救出作業を進めるうち3人が波に流され気絶しました。その時の様子は次のように書かれています。
「殊の他つかれ候様子にて白あわなぞを吹き申し候故介抱致し遣し候えば何れも丈夫に相成り・・・・・空地に仮小屋を建て1棟に幹部14人もう2棟に32人づつを収容いたしました。 5月4日」
 
食料は21ヵ村で白米を持ち寄り、炊き出しは南北朝夷で引き受け、その他の白子・瀬戸・平舘・忽戸・川口・平磯・千田の7か村から夜番2人づつ、その他の人足は組合村で平等に負担しました。こうして78人全員を救いあげたのはいいが、あきれる事件が起きました。
 
下級組員の狼藉です。助あげた時は頭を地につけ歓喜したけれども、翌日より救助の恩をも忘れ、所々に徘徊し2、3人づつ百姓の家へ土足のまま踏み込み、飯びつなどを取り出し無断でつまみ食いするなどしました。また、百姓の妻子を捕らえ帯をときすくめ狼藉不法をはたらくなど言語道断の振る舞いにもてあまし、船主へ申し出た処、「この科は万死に価し申し訳ない。当方よりどのように申し付けても要領を得ませんでした。」
 
5月8日大岡代官、高橋甚蔵・白石伊兵衛が参着し漸く静かになりました。藩の責任者、郡奉行の児玉阿柯は9日到着、目付安東某も同時でした。5月18日に代官稲垣藤左衛門が来て21ヵ村に人足を差し出すように命じ荷物の整理に取りかかりました。
6月13日船体解体に取りかかり荷物一切を筑前船3隻に積み込み人77人を無事長崎に届け帰国させます。
 
また、児玉氏は21ヵ村を回りお礼を述べ延べ人員6809人に対して日当を与え、万事粗漏なき様配慮して帰国しました。

元順号より陸揚げされたもの

砂糖、山帰米(梅毒用)、天草、犀角、阿片・・・・

経費

大岡様:金一両銭七百文、米飯八石(1200kg)、竹材
白子村:73両115文他
6809人の賃金は1人当たり64文
※江戸時代後期(1800年代)のお金の価値は、おおよそ金一両4万~6万円、一両は4000文。(サイトにより大きな違いあり)

川尻川河口から瀬戸浜方面
南千倉海水浴場と川尻川
 


 

外部サイト

【安房文化遺産フォーラム】清国船「元順号」漂着
【EICネット 館山まるごと博物館】日中友好の碑-清国船「元順号」の遭難救助
【たてやまフィールドミュージアム】南京船房州沖漂着一件-幕末の東京湾警備
【産経新聞】清の船救った南房総の海女…「おもてなし」の原点だ!

詳細情報

名称

清国船元順号遭難救助の碑

住所

〒295-0012 千葉県南房総市千倉町南朝夷1148-1

駐車場

あり

アクセス

JR内房線「千倉駅」より約1.8km 徒歩約23分
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