安楽寺(あんらくじ)
【宗派】天台宗
【称号】吉祥山極楽院安楽寺
【本尊】虚空蔵菩薩・阿弥陀如来
【由緒】由緒については下記の3説があります。(参考:丸山町史)
<御子神三郎家所蔵の安楽寺住僧、川名賢海法師の記述した縁起書>
当山は昔西原字笠名にあり宝亀年間(770年~780年)清澄寺の開基である不思議法師の創建と伝えられます。本尊の虚空蔵菩薩は不思議法師が清澄寺において彫られたものと言われています。法師が清澄山を下りこの地に来られ一寺を建立しご本尊を安置して民衆を教化指導しました。その後、慈覚大師この地を巡錫(じゅんしゃく)し堂塔伽藍を修復しました。その後、寺が荒廃し豪族丸氏が、吉祥天女のお告げにより笠名から丸城下の現在地に移し開山し丸一族の菩提寺としました。
さらにご本尊虚空蔵菩薩は旧地に小堂を建てて安置し、新たにご本尊を刻して石堂寺第十二世法印兼浄が導師となり、治承四年(1180年)源頼朝が石橋山の戦いに敗れこの地に来た時、丸五郎信俊を案内者として丸郷厨を巡視し丸氏の館に泊まり、翌日安楽寺を参詣しました。
嘉吉元年(1441年)八月二十七日、大檀那丸一族が安西氏に敗れ堂塔は兵馬により破壊されました。享徳元年(1452年)春、丸氏は阿弥陀堂と山門を再建し隠居暮らしをしていましたが、一族の敗退とともに再び荒廃しました。
天正年間(1573年~1592年)大十世宗覚和尚が布教活動に専念し檀信徒の帰依をうけて再建。さらに寛永年間(1624年~1644年)雄宗が庫裡を建設し城山に権現社を造営しました。また、享保四年(1719年)三月二六日石堂寺末となり堂塔を修理。その後覚賢僧都が晋山(しんざん)し再興に尽瘁(じんすい)したと記されています。
<安楽寺所蔵縁起書>
創建はこの地方の城主丸但馬守通常の創建とあります。丸氏には一人の娘がいて容姿が美しく大切に育てていましたが、前世の因縁は逃れることができず、らい病にかかり皮膚がくずれ落ちて嫁にやることができず両親は朝夕嘆き悲しんでいました。娘もこの世をはかなみ剃髪して尼僧となりました。両親は娘のために一寺を建立しここに住まわせました。
<その他>
当山が西原笠名より丸本郷の現在地に移転再興されたのは、丸氏本家の滅亡後でおそらく前からあった阿弥陀堂の境内に建立されたのではないかとする説もあります。だとすると、この阿弥陀堂が、娘の住寺であったのかもしれません。
大理良純師により、昭和五十八年鐘楼を、昭和六十二年庫裡を新築落成しました。
入り口の門には丸城主菩提寺と刻まれています。
入口右側の石碑
鐘楼塔
梵鐘
鐘楼堂再建記念碑
安楽寺中雀門(ちゅうじゃくもん)
この中雀門は室町時代に建立され安楽寺の古建築を代表するもので、南房総市文化財(昭和50年11月1)に指定されています。享徳元年(1452年)の建築といわれ茅葺(現在は銅製)円柱の四脚門です。一部は改築された跡がありますが、重要部分は当時ままで残っており、文化的に価値のあるものです。
安楽寺には中雀門の他に下記2つの南房総市文化財が所蔵されています。
磬(けい) 昭和50年11月1
磬は礼盤の右側に架けられていて、法要の際、導師が打ち鳴らし出座の衆僧に進行を確認させる法具で、古来中国では楽器として石もしくは玉でつくられ後に金属でつくられるようになりました。安楽寺にある磬は平安時代末期のものと推定され、歴史が古く価値が高い
鋳造護摩釜(ちゅうぞうごまがま) 昭和50年11月1
安楽寺の寺宝として大切に保存されているこの護摩釜は、享徳元年(1452年)丸五良平常重が、内室清光院殿菩提のために安楽寺に寄進したもので直径44cm底から取手の先端までの高さが41cmの青銅製で県下におけ在銘品として唯一の物です。
手水舎
手水鉢は平成四年十一月奉納
本堂
右は本堂、左の建物は調査中。
本堂向拝の龍の彫刻
彫工師の名前は彫られていません。
詳細情報
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