洲宮神社(すのみやじんじゃ)
祭礼 :毎年8月の第一日曜日
主祭神:天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)
相殿神:天鈿女命(あめのうずめのみこと)・芸能の女神
天富命(あめのとみのみこと)
天富命(安房神社下の宮の祭神)は四国の忌部氏(いんべうじ)を率いて布良の駒ヶ崎に上陸し、天太玉命の孫神である天太玉命(安房神社本宮の祭神)を男神山に安置、天太玉命の妃神である天比理刀咩命(洲宮神社の祭神)を女神山に安置し房州を開拓しました。
なお、天比理刀咩命は洲崎神社の主祭神でもあり、洲崎神社が拝所、洲宮神社が奥宮であるとも言われています。
明治五年(1872年)には、教部省が洲宮神社を式内社と定めました。しかし、翌六年(1873年)に洲崎神社を式内社と覆し式内社論争となっていましたが、文永十年(1273年)の火災により古書などを焼失したため、証拠不十分となり式内社とは認められませんでした。
現在では、洲崎神社を一宮、洲宮神社を二宮(確かな史料はない)とし、両社とも近代社格制度で県社に列格されています。ちなみに、館山市の県社は洲崎神社、洲宮神社、鶴谷八幡宮の三社で、安房神社は最上位の官幣大社に列格されています。鶴谷八幡宮で行われる安房国司祭(やわたんまち)では、安房神社の神輿に次いで「安房二ノ宮洲宮神社」の幟を掲げ洲宮神社の神輿が入祭しています。
由緒
『洲崎神社伝記』によると、洲宮神社は当初は、神明山に鎮座していて後に魚尾山(とおやま)へ移転、文永十年(1273年)の火災により永享十一年(1439年)にようやく現在の地へ移転したとあるようです。しかし、現在の地でも祭りに使われた祭祀用土器などが出土しているため古代から祭りが行われていたようです。
いづれにしても、古い資料が焼失してしまったため、確かな事は分らないようです。
参考文献:房総の古社
千葉県安房郡誌
八月の第一土曜日は洲宮神社の祭礼なので、境内には花が飾られます。南房総周辺では、祭りの日には、竹に紙の花を付けた飾り(呼び名は分りません)が各家庭に配られ玄関などに飾られます。この花は地域により色が違います。
拝殿
御神木の大銀杏
拝殿、本殿とも神明造りです。
拝殿左には小さな社があります。千葉県安房郡誌によると拝殿左には「子安神社」「神明社」「日枝神社」の三社が鎮座とありますが、現在は一社のみで、この社がどれに当たるのかは分りませんでした。
手水舎
洲宮神社の文化財
(境内の案内板より抜粋)
◎洲宮神社縁起 館山市有形文化財(昭和44年2月21日)
神社に伝えられる忌部一族による安房の開拓や、安房神社、洲宮神社、下立松原神社の創建の由来などが語られ、本文のうち3分の1は、失われた「安房古風土記」ではないかと考えられます。この縁起の成立年代は不明ですが、「古語拾遺」(こごしゅうい)807年からの引用とあり、平安時代以降と推定されています。別紙となっている奥書に、慶長2(1597年)に虫食いのため元の本から写したと記してありますが、現在の縁起はそれを更に写し取ったものと考えられています。
◎祭祀用土製模造品 館山市有形文化財(昭和44年2月21日)
洲宮神社の旧社地と伝えられる魚尾山から出土した、手づくね土器と鏡・勾玉・有孔円盤の土製模造品(器物を土で模して作ったもの)などです。古墳時代後期のものと考えられます。この時期安房では、土製模造品を使用した神まつりが盛んに行われており、これらの出土品は安房独自の祭祀の形態を表すものです。
◎木造天部像 館山市指定有形文化財(昭和44年2月21日)
一木造(いちばくづく)りですが、右腕は失われ、左手も肘より先がなく、顔が損傷しているため像容は不明です。四天王か二天王のうちの一体あるいは毘沙門天像と考えられています。南北朝から室町時代前期にかけて制作されたと考えられます。
◎ 御田植神事 館山市無形文化財(昭和44年2月21日)
毎年元旦に洲宮神社前で、その年の豊作を願って行われる儀礼です。羽織袴姿の作男が唱える言葉に従って、まず氏子が竹の鍬で田を耕す所作をします。続いて牛役の物が代かきを行い、作男が籾をまきます。最後に早苗を模した松葉を手に氏子が田植えの所作をして終わりとなります。
毎年9月に鶴谷八幡宮で行われる安房国司祭(やわたんまち)では洲宮神社の神輿が入祭します。下の写真は安房神社(奥)と洲宮神社(手前)の神輿です。
【住所】〒294-0223 千葉県館山市洲宮921
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