布良崎神社

2017年08月21日

布良崎神社(めらさきじんじゃ)

 
【主祭神】天富命(あめのとみのみこと)
【相殿】 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
     金山彦命(かなやまひこのみこと)
【祭礼】7月20日過ぎの土曜日
【由緒】(境内の案内版より)
主祭神に天富命を祀り後に素戔嗚尊・金山彦命を合祀し安房神社の前殿(下社)となる。御祭神天富命は五世紀、神武天皇の勅命を報じ沃土を当方へ求むべく天太玉命の御霊(みたま)と四国の忌部氏(いんべうじ)を率いて紀伊半島・伊豆半島を経由しこの房総の地、布良の駒ヶ崎に上陸した。祖神、天太玉命を男神山(安房神社御祭神)に安置し、后神(きさきがみ)天比理刀咩命(洲宮神社御祭神)を女神山に安置し漸次開拓の歩を進められ北上し特に麻・殻(がじ)の播殖を奨励し、製錬技術に優れ建築並に漁業の技術を指導され、衣食住の神として崇敬される。安房神社を一旦は布良の神谷(かみやつ)に鎮座し此処を出発地点として現在の安房神社(吾谷山)に西暦七一七年に鎮座し、祖神、天富命を祀る。
 
境内は2段になっていて下の方には細石、狛犬(昭和七年建立)、大山津見神があります。
 
布良崎神社の下の境内
 

拝殿と本殿

 
本殿は木造神明造、拝殿は木造入母屋造で「千葉県安房郡誌」によると明治四十八年建築とありますが、その後改築されたかどうかは分りませんでした。拝殿に向拝の無い珍しい造りです。
 
布良崎神社拝殿
 
布良崎神社拝殿と本殿
 
上の境内には、社殿があり社殿から海に向かって左側に神輿庫、手水舎、三州瓦があり、右側に御神木、夫待視台、岩座があります。
 
布良崎神社の上の境内
 
神輿庫は祭りの神輿を納める倉庫です。
 
神輿庫手水舎

 

三州瓦(鬼瓦)(写真左下)

 
<境内の案内板より>
この鬼瓦は明治十一年にこの地で焼かれました。神社では珍しく屋根は瓦です。明治九年の布良の大火事で悉く灰になり、二度と火災にならないよう、全村民の家長を集めて布良神社、拝殿を中心とし、距離にして二十間の茅葺の屋根は禁止する。各家主が実印を捺印して制約したと古文書に残されています。三州(現 愛知県)の瓦職人を家族ごと連れてきてこの地で瓦を焼いて葺き替えをする神紋の十三菊鬼瓦を初めとして全ての瓦を焼く。職人達は故郷に帰郷するが一家族だけ布良に永住され神主の姓を願いたのが布良、藤森家(屋号三州屋)である。
 

御神木 (写真右下)

 
御神木はビャクシンのようです。
 
三州瓦(鬼瓦)御神木のビャクシン

 

夫待視台(富士見台) (写真左下)

 
<境内の案内板より>
この布良村が鮪延縄漁の発祥の地です。明治二十年代はこの地は鮪水揚げの日本一です。水揚高は今の価格にすると約二十五億円位だそうです。(当時八丁櫓の船約二百隻)宵越しの金は持つな!海に宝が泳いでいるとまで言われた地です。この海は鬼ヶ瀬(海図上布良瀬)という大きな瀬があり、波や渦が変則的に発生し、浅場の水深は二間位です。海藻にとっては光合成が良く大きく育ち稚魚が隠れるには最適な場所です。それを狙う大きな魚は多く集まります。しかし、大きな瀬は大きな波も造り出します。漁師が一晩で数百名の命が奪われ、この村を後家村とまで呼ばれました。この富士見台は漁に出た主人や恋人の無事な帰りを海を眺めながら帰港を待った丘です。
 
近年では夫婦思い・恋人思いとして「思いの丘」と言われるようになりました。
 

岩座 (写真右下)

 
この岩座(いわくら)は西暦800年頃に祀られました。
古代の民族風習においては、自然物に神が鎮座するとして岩や山に祈りをささげてきました。多くの神社の原点は祀られているのが岩座であり、社殿や鳥居は後から作られたものです。人々は素朴な岩屋を信心し、漁師は潮の流れ、干満を知り季節風向、潮の目を知り大漁祈願と共にデータを生み出したのです。
 
一の鳥居と岩礁を結ぶ直線状に太陽が沈むのが夏至、岩座の海への直線状に太陽が沈むのが冬至に当たります。
 
この神社は日本一珍しいのは霊峰富士、一の鳥居、二の鳥居、夕日と重なる時期にお祭りとなります。百年前に祭りの日が修正され、現在では七月の二十日前後になります。
夫待視台岩座

 
境内の眺めは良く、天気の良い日は富士山が見えます。特に5月下旬と8月上旬には富士山の頂上に夕日が沈むダイヤモンド富士を観ることができ、布良崎神社のダイヤモンド富士は鳥居の中心に富士山と夕日が沈む絶好の撮影スポットとして有名です。
 
境内から見た富士山
 

玉石垣

 
<境内の案内板より>
この石垣は国内では珍しい丸型の石が積み上げられています。
産地は伊豆稲取の石です。お堀や城等のように三角四角五角というのは力学的に計算できるけど丸く不安定な石はなかなか積むことができません。しかし、三州瓦の職人は石瓦を積み上げる工法で積み上げた。丸型の不安定な石を利用して不安定に転がる方向を生かし山側の泥岩の特徴を生かし風雨の浸食を利用して、中には泥アンコは一切使わず不安定な石が動いて泥岩を削り凹ませ丸型の石が自然に収まる様に工夫されています。関東大震災でも一個の石も落下しなかった。逆に揺れて山の泥岩が浸食され、雨水が回ってより安定して反りを出します。角度、上の石は大きな石が使われ斜め奥に居座る様に施工してあります。
 
玉石垣
 

房州細石(さざれいし)

 
細石は小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化したものを指す。学術的には「石灰質角礫岩」などと呼ばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しづつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。
 
この地方は数千年前は海底であり、神社の裏山からは小規模だが鍾乳洞も発見されている。明治九年の大火で社殿が燃え、神社境内を火災に遭わないように裏山を削り取っているときに発見され、当時はただのゴマ石だろうと手洗鉢として百年以上加工して使用していたが平成二十四年に岩石の専門家によると、鉄・石灰岩の含有量は違うけど房州の細石と判明された。この石は伊豆半島でも発見されている。
 
日本国家の「君が代」の歌詞に歌われることで、その名が知られている。歌詞中の細石は文字の通り、細かい石、小石の意であり、それらの小石が巌となり、さらに苔が生えるまでの過程が、非常に長い年月を表す比喩として用いられている。
房州細石おんな坂

 

大山津見神(おおやまづみのかみ)大山祗神

 
須佐之男尊の兄弟神であり各地の山神様の祖神である。有名な神社では青森、岩木山神社・静岡、三嶋大社
 
明治九年の大火で社殿が燃え、神社境内を火災に遭わないように裏山を削り取って建て替えするに当たり、大山津見神様をお祀りして山神様の魂を鎮めて頂き、工事中無事故で社殿を建立することができました。山を削り取った期間は戸別一人以上人足を出して行ったそうです。安全を願って方向は布良崎神社の境内を向いています。
 
ご利益
国土安全・工事安全・家内安全・商売繁盛・開運・延命長寿・縁結び・夫婦和合・子育て・厄除け
大山津見神新岩座

 


 
【住所】〒294-0234 千葉県館山市布良379
【駐車場】あり
【御朱印】不明 ※下記にお問い合わせください。
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【電話】スマホの場合はここから直接電話できます⇒0470-22-2000館山市観光協会
 
<布良崎神社の地図>

詳細情報

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