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雲龍寺【井上杉長の墓ー南房総市文化財】

雲龍寺本堂の画像

雲龍寺(うんりゅうじ)

 
南房総市千倉町久保の大沢山雲龍寺は曹洞宗の寺院です。境内には南房総市文化財に指定されている「井上杉長(さんちょう)の墓」があります。
(参考文献:千倉町史)
【宗派】曹洞宗 鴨川市宮山長安寺
【山号】大澤山長安寺
【本尊】虚空蔵菩薩
【御朱印】お寺にお問い合わせください
【由緒・沿革】(境内の案内板)
貞享年間(1684年~1688年)、戦国の武将正木家の菩提寺である鴨川市吉尾の長安寺十四世胃曽扶英和尚(貞享二年九月六日没)によって開山されました。場所は、山号の通りこの裏山の通称蟹谷(やつ)と言われる沢の上に建立されました。しかし、元禄の大地震に遭い建物は崩れ住職も亡くなってしまいました。
 
延享二年(1745年)正月雲龍寺第四世西阜永関大和尚(久保の堀江長左衛門の産まれ、延享二年十二月六日没 )によって現在地に朱塗りの山門と共に久保の大寺が再建されました。
 
石段は久保の井上四郎兵衛家の寄進でした。しかし、大正十二年九月一日の関東大震災で雲龍寺の建物はもとより部落のすべての建て家も潰れてしまい、そうした中で久保部落の人達は、雲龍寺の仏様を風雨に晒すわけにはいかないと言って崩れた庫裏の材料を集めて建てた建物が現在の雲龍寺であります。
南房総市指定有形文化財 平成十八年三月十日指定
俳諧師 井上長杉墓
 
境内入口右側には大きな池があります。
雲龍寺の境内入口
 
南房総市指定(旧千倉町)文化財の案内板
雲龍寺の文化財の案内板
 
雲龍寺の由緒・沿革説明
雲龍寺の案内板
 
この石段の上に本堂と井上杉長の墓があります。
雲龍寺入口の石段
 
雲龍寺本堂の
 

井上杉長とは

 
井上杉長(井上良珉元卿)は明和七年(1770年)八月二十七日、久保村四郎兵衛丹治家に生まれ、幼名は三之助、十三歳で組頭、十五歳で元服(成人になったことを示す儀式)して彦一と改名。二十六歳の時家督を継いで医者となります。十七、八歳ごろから、江戸の杉風俳系の採茶庵平山忠左衛門梅人のもとで俳諧を学び諸国の俳諧人と交流し、諸国の遊暦は至らぬ処なしと自称しました。医業についても真野(現丸山町久保625)の西宮家に風邪、淋病、ひょうそうなどに効く薬が栽培され、それを利用して医術も秀れ、後年松平定信の待医となり仁術と俳諧が定信の信任を厚くしたと言われています。
 
文化四年(1807年)平磯の俳友山口郁賀(いくが)と師梅人の七周忌追福集「梅人句集」を江戸で刊行。文化十一年(1814年)四十二歳の時、娘婿宗治に家督をゆずり千倉町白子の「白子遠見番所」の陣医として出仕。小林一茶とも親交があり、一茶は杉長の家に二回俳諧行脚して句座を開いたことがあります。
 
安馬谷の福性院境内句碑に「蝶を追う 心もちたし いつまでも」とあり文政壬午春(1822年)三月、安馬谷の門人竹由建、江戸文茅書とあります。
 
文政七年定信が転封されると同行して文政十一年二月十九日桑名で没しました。 戒定院脱良恵居士、享年五十九歳
 
没後五年子の宇明や門人等により、白浜町野島崎の白浜海洋美術館前に「杉長墳」が建立され現存しています。
井上杉長の墓
 
境内には杉長の句碑がありますが、達筆過ぎて読めませんでした。
井上杉長の句碑

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