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稲荷神社【館山市北条鶴ケ谷】

稲荷神社の境内全景

稲荷神社(いなりじんじゃ)

 
館山市北条の「稲荷神社」は安房高横に鎮座する神社です。大きな神社ではありませんが、境内は綺麗に整備され地元の人に愛されている神社です。
【旧社格】無格社
【祭神】豊宇気日売命(とようけひめのみこと)
 伊勢神宮の外宮(げくう)の祭神。食物・穀物の女神
【祭礼】四月九日 社務所で親睦会
【御朱印】不明
【由緒・沿革】(参考文献:北条村史)
明治元年(1868年)十月 駿河国田中城主「本田正訥(まさもり)」が駿河から安房に移封された際に城内にあった秋葉神社と田中神社を合祀して稲荷社として長尾村(現南房総市白浜町滝口付近)の笠木山に遷座。
明治五年(1873年)五月 正訥の養子正憲(まさのり)が稲荷社を鶴ケ谷の現在地に奉遷し社殿を造営。
明治三十七年(1904年) 588坪あった境内から山林を除いて175坪に境内地を訂正。
大正二年(1913年)、八年(1919年)、九年に本殿、参籠舎、鳥居などを改築
大正三年(1914年) 二月六日、北町の稲荷神社を合祀。
大正六年(1917年) 池谷義次と竹田録萬の厚意により境内地は寄付され神社所有地となる。
大正十二年(1923年) 稲荷神社の護持会を結成して葵恩会(きおんかい)と命名
大正十二年九月一日 関東大震災により社殿等が全壊
大正十四年 参籠舎を新築
昭和二年(1927年)四月 拝殿、本殿、幣殿、鳥居を再建。
 

手水石

 
文字は読み取れませんが、北条村史によると、明治三年(1870年)横須賀氏在住、松蔵による奉納とあります。
稲荷神社の手水石
 

拝殿

 
向拝に彫刻はありません。
稲荷神社の拝殿
 

扁額

 
古い物のようで虫食い跡が多数あります。これは本多正敬による揮毫。かろうじて稲荷神社 本多正敬書と読み取ることができます。
社内には、本多正憲と本多正敬の揮毫による社名額があるとされています。
拝殿の扁額
 

本殿

 
拝殿と本殿
 

長尾藩の大砲の跡地

 
長尾藩士長房繁郎は明治四年(1871年)七月の廃藩置県の後、本多正憲から大砲を拝領して自宅に置いていましたが、大正十年(1921年)に当社に奉納。その後昭和十六年(1941年)戦争により大砲は供出され、現在は跡地に石碑が建てられています。碑文には「天保十四年豊前本多正憲公ノ鋳造セシメラレタルモノニ係ル、記念ノ爲メ胥謀(あいはか)リテ社頭ニ奉納ス。大正十二年十二月二十二日 旧臣下氏子一同」と刻まれています。
 

長尾藩とは

 
(参考文献:館山市史、北条村史)
明治維新の頃、慶応四年(1868年)から明治四年(1871)年の廃藩置県の四年間、安房国にあった藩。はじめは長尾陣屋(現南房総市白浜町滝口)にあり後に北条陣屋に移転。
 
慶応四年(1668年)五月徳川家達は新政府より駿河藩主を命ぜられたことから、駿河田中藩の領主、本多正訥(まさもり)は元の領地を上地して安房国の長尾に封じられました。当初は任地の長尾に陣屋を建てる計画でしたが、台風のために倒壊してしまい、領内である北條に陣屋を建て藩庁を置きました。
明治三年(1870年)12月に正訥は隠居し、本多正憲が後を継ぎます。しかし、翌明治4年(1871年)7月の廃藩置県により長尾藩は廃藩となり長尾県となります。同年11月長尾県は木更津県となります。
大砲の跡
 

鳥居

 
拝殿左の鳥居。扁額には稲荷大明神と刻まれています。鳥居の形状は明神鳥居です。
拝殿左の鳥居
 

石宮

 
鳥居の奥には石宮が祀られています。他から合祀した稲荷社、じい神、ばあ神の石祠です。
鳥居奥の石宮
 

稲荷神社の由緒

 
境内にある由緒書き。
境内の案内板

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