愛宕神社(あたごじんじゃ)
南房総市千倉町の愛宕山に鎮座する「愛宕神社」は 火結命を祭神とする神社。当神社には四つの南房総市文化財が所蔵されています。
愛宕神社概要
【社格】旧村社
【祭神】火結命(かぐつちのみこと)
別名、火之炫毘古神、火之迦具土神、軻遇突智とも呼ばれる。火の神。
【祭礼】1月第4日曜
【御朱印】不明
【由緒・沿革】(千倉町史)
創立は元亀(げんき)年間(1570~1572)と伝わります。別当寺愛宕山 地蔵院の文章によると、治承年間(1177年~1180年)前の少将四位平信時が、継母のざん言により当国に流罪となってしまった。これを哀れんだ嵯峨大覚寺の住職が恵都御作の地蔵尊像を下されました。また、道中の無事を愛宕権現に祈り当国に向い自宅の傍らに草庵を結び地蔵尊を安置して前の山に祠を建て、京の愛宕山より権現を勧請。その後幾多の変遷を経て明治五年(1872年)神仏分離の際に愛宕神社と改称するとともに村社となりました。
当神社には安永三年(1774年)波の伊八こと武志伊八朗23歳の波の彫刻と後藤義光14歳、文政十一年(1828年)の大黒天像・賓頭盧尊者像の彫刻があります。
境内案内
一の鳥居の先は石段となっていて途中に朱塗りの二の鳥居があります。ここからまた石段を上ると社殿が鎮座しています。社殿は愛宕山の頂上にありますが、深い森に囲まれていて見晴らしは良くありません。
頂上の海抜は40mで一時避難所にも指定されています。
参道入口
ここが参道入口。駐車場はありません。
一鳥居の手前左側の石柱には「愛宕神社 鎮座 昭和六年九月建立」と刻まれています。年代はこの石柱のものなのか、社殿の再建のものなのか不明です。
右側の石柱は文字が刻まれていますが読み取れません。
一の鳥居
年代は彫ってありませんが、比較的新しいと思われます。形状は明神鳥居。全国に900社ある総本宮の京都 愛宕神社と同じ形状です。
階段改修記念碑と文化財の案内
一の鳥居の後ろには階段修復記念碑と南房総市指定文化財の説明があります。
<南房総市指定文化財>
・波と龍
作者:武志伊八朗信由(初代伊八)
安永二年(1773年)二十二歳の作
・冨士巻狩図
作者:川名楽山(楽翁)
明治十八年(1885年)の作
・賓頭盧尊者立像(びんずるそんじゃりゅうぞう)
作者:後藤利兵衛橘義光(幼名 若松)
文政十一年(1828年)十四歳の作
・大黒天立像
作者:後藤利兵衛橘義光(幼名 若松)
文政十一年(1828年)十四歳の作
川名楽山とは
天保三年(1832年)館山市沼で川名六左衛門正直の次男として生まれ、明治二十五年(1982年)十月二十一日61歳没。狩野派の画家。幼いころから絵を描くのが好きだった楽山は江戸で狩野派の武八や岡島素岡に絵を学ぶ。嘉永4年(1851年)には館山へ帰郷しょ画家教授として館山藩へ仕官。その後、館山県の廃止により神官へと転身し、官弊大社安房神社の権祢宜となりました。61歳で亡くなり墓は館山市上真倉の慈恩院に墓があります。
一の鳥居の先はすべて石段となっています。
石段の手前には「天保三年(1832年)壬辰(みずのえたつ)年霜月(11月)吉日」の石柱が建っています。
石段の右側には出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の供?塚があります。
二の鳥居
階段の中程には朱塗りの二の鳥居が建っています。年代は不明、形状は両部鳥居です。
手水舎/手水石
愛宕山頂上には手水舎と拝殿・本殿と小さな社があります。手水石の年代は不明です。
常夜灯
拝殿手前の常夜灯。古い物と思われますが年代は不明です。
拝殿
案内板によると、武志伊八朗信由の波と竜の彫刻があると書いてありますが、竜の彫刻が見当たりません。
木鼻の獅子の彫刻
向拝裏側の波は精巧な造りです。これは初代伊八の作品なのでしょうか。
本殿にも波の彫刻が施されています。