菊池寛(きくちかん)の石碑
南房総市久枝の岩井海岸には菊池寛の石碑が建っています。
(参考文献:富山町史)
この歌は高崎の米屋(よねや)旅館に滞在中、館主武笠祐一の求めに応じて作られたものであり、現在も自筆の色紙が保存されています。昭和三年(1928年)頃から毎夏のように家族や仲間と米屋に訪れ滞在したといいます。
菊池寛
(参考文献:人間臨終図鑑・山田風太郎/文人悪食・嵐山光三郎)
明治21年(1888年)~昭和23年(1948年)香川県生まれ。芥川龍之介らと第3・4次「新思潮」同人に。通信記者を通じて作家となる。1923年「文藝春秋」を創刊。戯曲「父帰る」、小説「恩讐の彼方に」などがある。
<エピソードなど>
文藝春秋をおこしてから寛のところへは多くの文士が金を借りにきた。金を渡すときは皺(しわ)だらけの金をわしづかみにして出すことが有名だった。金の渡し方がフランクで相手に負担を感じさせない。寛は「この人のためにはこれくらい出しても惜しくないと思う金額だけしか貸さない。貸した以上、返してもらうのを考えたことはない。また払ってくれた人もいない」と言っている。
寛は成績優秀で中学卒業後に学費免除で東京高等師範学校へ進学したが、芝居見物やテニスに熱中して授業に出席せず除籍処分となる。その後、明治大学法科に入学するが3ヶ月で退学。徴兵逃れのため早稲田大学に籍のみを置く。明治43年(1910年)文士を志し第一高等学校に入学したが、盗品と知らずマントを質入れしたことが原因で退学。その後京都帝国大学に入学し大正五年(1916年)に卒業。
食中毒を恐れ、好物の生ガキを食べるときは2つ食べてから石炭酸のダイモールを飲み繰り返し食べた。寛は「料理がうまいのは喉先三寸であるから、胃に負担をかけないために食べたものは吐いてしまった方がいい」と言っていた。カキを食べた後は嘔吐物を点検して、カキが石炭酸で消毒されているのを確認して人に自慢した。
昭和二十三年(1948年)胃腸を害し入院。治療が終わり退院し主治医らを招いて三月六日に退院記念の宴会を行った。好物の鮨を食べ二階に上がったところ狭心症を発症して十分後に急死。後日、遺書が発見された。「私はさせる文才無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に深く御礼申します。ただ皇国の隆昌を祈るのみ。吉月吉日」
石碑の正面は岩井海岸。夏場は海水浴客で賑わいます。
遠あさの海きよらかに子等あまた群れあそびゐる岩井よろしも
石碑の裏にはハマユウ(浜木綿)の花が咲いています。ハマユウはヒガンバナ科の多年草。温暖な海浜で多く見られ房総半島南部が北限とされています。
岩井海岸横の木ノ根峠ウォーキングコースの案内板
菊池寛の石碑横の公衆トイレ周辺には野良猫はたくさん住んでいます。一時より数は減りましたが、まだ数匹います。かなり人馴れしていて人が近くに来ると近寄ってきます。カワイイのでエサをあげたくなりますが、エサをあげると増えてしまうのでエサをあげないようにしています。
手を出すとずっと舐めています。